三滝橋から約十分、今度は海蔵川を渡って「三ツ谷一里塚跡」の碑を過ぎ、国道1号線に合流して羽津町で左手に再び分かれると、ここから桑名宿の手前まで、町中の住宅地をひたすら進んで行くことになります(上段写真)。
途中、八田地区では先に見た泊地区と同じく、かつてここが松並木であった時代から唯一変わらずに佇む一本松──かつての地名に引っ掛けた「川原須(かわらず)の松」、
そしてその先には、電球ながら本当に灯りがともる常夜灯が、
道中で印象に残ります。
四日市宿から歩くこと約二時間、ようやく桑名の入口、員部川(いんべがわ)のほとりに。
もとは町屋川とも云ったこの川、かつては板橋が架かっていましたが、
現在は国道1号線に架かる町屋橋を渡って行きます。
橋を渡るとすぐに左折して旧道の続きに戻り、
かつては直線の松並木、現在は住宅と工場が沿道に続く“江場の松並木跡”を通って、永禄年間(1558~1570)以前には“三崎(みつさき)”といった桑名の宿へ、いよいよ入って行きます。
そして「七里の渡し」の船着場へと続くわけですが、亀山宿と同じく城下町であるため、
渡し場まではウンザリするほど多くの見附─つまり枡形の道を通らねばなりません。
桑名宿に入って歩くこと一時間、最後の枡形を曲がり、
桑名城三ノ丸跡の石垣を右手に見ながら進んで、
ようやく七里の渡し場に到着。
白木の鳥居は伊勢神宮の一鳥居で、東からの伊勢参宮はここが起点であることを
示したものです。
鳥居の向こうには、かつては港の景色が広がっていたそうですが、昭和三十四年の台風15号──伊勢湾台風以後はコンクリートの堤防に囲われてしまい、かつてここから宮の宿(熱田)への渡し船が出ていた面影など、偲ぶよすがもありません。
途中、八田地区では先に見た泊地区と同じく、かつてここが松並木であった時代から唯一変わらずに佇む一本松──かつての地名に引っ掛けた「川原須(かわらず)の松」、
そしてその先には、電球ながら本当に灯りがともる常夜灯が、
道中で印象に残ります。
四日市宿から歩くこと約二時間、ようやく桑名の入口、員部川(いんべがわ)のほとりに。
もとは町屋川とも云ったこの川、かつては板橋が架かっていましたが、
現在は国道1号線に架かる町屋橋を渡って行きます。
橋を渡るとすぐに左折して旧道の続きに戻り、
かつては直線の松並木、現在は住宅と工場が沿道に続く“江場の松並木跡”を通って、永禄年間(1558~1570)以前には“三崎(みつさき)”といった桑名の宿へ、いよいよ入って行きます。
そして「七里の渡し」の船着場へと続くわけですが、亀山宿と同じく城下町であるため、
渡し場まではウンザリするほど多くの見附─つまり枡形の道を通らねばなりません。
桑名宿に入って歩くこと一時間、最後の枡形を曲がり、
桑名城三ノ丸跡の石垣を右手に見ながら進んで、
ようやく七里の渡し場に到着。
白木の鳥居は伊勢神宮の一鳥居で、東からの伊勢参宮はここが起点であることを
示したものです。
鳥居の向こうには、かつては港の景色が広がっていたそうですが、昭和三十四年の台風15号──伊勢湾台風以後はコンクリートの堤防に囲われてしまい、かつてここから宮の宿(熱田)への渡し船が出ていた面影など、偲ぶよすがもありません。