東京都品川區西五反田の“かむろ坂”、昔このあたりに花街があったとは聞かないが──近くの五反田界隈は近代に花街だったらしいことは聞いてゐるが──、いかにも曰くありげな名稱で前から氣になってゐたところではあり、この際ちょっと調べてみやうと存じ候。
坂の途中の公園の、いかにもな銅像の脇に立つ案内板に拠れば、時は江戸時代、遊女小紫の禿(かむろ)は、小紫が戀人の平井權八の後を追って自害したことを訪ね先の冷心寺で聞かされた帰り道、暴漢に狙はれ、もふ逃げ切れぬと觀念して二ツ池に入水自殺云々、哀れに思った地元の人たちが遺体を丘の中腹に葬り塚を建て、やがて塚を「かむろ塚」、丘を「かむろ山」、入水した池を「かむろが池」と呼ぶやうになったが、時代の流れでいつしか失なはれ、當地の坂にその名を殘すのみ云々──
“かむろ(禿)”とは、遊女の身の回りの世話をする幼女のことで、
(※中央が花魁、その両脇が禿)
この時からすでに苦界に身をおく未来の定められた存在、現代では歌舞伎劇のなかでその姿(なり)を見られるのみ。
戰時中、前進座が上演した歌舞伎十八番の「助六由縁江戸櫻」を、軍人の團体が觀劇云々、五世河原崎国太郎扮する花道道中の揚巻が、酔態でちょっとヨロケると、禿がすかさず「花魁、お危なうござんす」の臺詞、すると花道際の席で觀てゐた一人の軍人が笑顔を浮かべるのが国太郎に見えて、「この人たちも本當は戰争などしたくはないのではないか」と、思った──
(※「助六由縁江戸桜」 五世河原崎国太郎の三浦屋揚巻)
このとき禿に扮してゐたのは国太郎の幼い娘云々、大日本帝國軍人と云ふと、サーベルをガチャつかせて「テンノウヘイカにチューセー!」だの、「おいッ! 貴様ぁッ!」だのと威張り散らしてゐたと云ふ記録はよく見るが、“笑顔”と云ふ人間臭い姿の記録は、五世河原崎国太郎の藝談にあるこの挿話のほかに、私は知らない。
軍人と云へどもしょせんは人の親、幼き子の嘘のない姿につひ情を揺さぶられたものかどふか知らないが、日本劇界史の一側面を多く記録した五世河原崎国太郎の藝話のなかでも、よく印象に殘ってゐる一場面である。