迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

ニッポン徘徊─東海道18 御油宿→吉田宿(豊橋)

2017-11-26 10:37:09 | 旧東海道
松並木を過ぎると、やがて道の両側にまたがる醤油工場が見えて来て、御油宿に到着(上段写真)。

赤坂宿からは十六町(約1.7㎞)、歩いて15分程の距離。


この先の、城下町である吉田宿の堅苦しさを嫌った上りの旅人たちがこの宿まで足を伸ばし、また遊女も多く、それは賑わったそうですが、数十年前まで面影を留めていた当時の町並みも、現在ではほとんどが新しい家に建て替わっているか、



更地(売地)になっているなど、唖然とするほどに様変わりしています。

御油(五井)橋を渡り、宿場外れの新栄町あたりのほうが、



格子の嵌まった古い家がちらほらと残っているのは皮肉です。


新栄町の先で国道1号線に行き当たり、かつてはその先へと道が続いていましたが、現在では印刷工場と名鉄線の線路のために道筋は消滅しており、国道を数百㍍迂回して、



白鳥町の田んぼのなかに残る続きの道へと入ります。


その先で国道を横断すると、道が工場などに沿って真っ直ぐにのびているのはかつての畷(なわて)の名残り、約20分ほどで小田渕町の五六橋(資料では“八枚橋”)を渡れば、道はさらに見事な直線となって、



吉田城下へ渡る吉田大橋付近まで続いています。


桜町地区では冷泉為村の歌碑を見、小坂井町でJR飯田線の踏切をわたり、人身御供の悲話「子だが橋」の伝説を記した標識を見てから、豊川放水路に架かる歩道のない橋を渡るなど、延々歩くこと約1時間、吉田城下も近い横須賀町で、松並木の名残りと思しき一本松に出逢い、



さらに10分ほど行って緩い左カーブ沿いの古民家を過ぎると、右手には豊川の堤、



かつてはここから吉田大橋という約220㍍の木橋を渡りましたが、現在はその上流に架かる豊橋を渡ります。


明治2年に豊橋と改称されるまでは吉田と云ったこの城下町にも、岡崎同様の枡形が多く設けられ、



現在も道路標識に従って、道順を辿ることが出来ます。



そして市役所にほど近い札木町の交差点手前にある鰻屋「丸よ」が、本陣跡です(↑写真左手)。

この「丸よ」は明治初期、渡辺崋山の息子の渡辺小崋の発案で『すこぶる別品』としたためた看板を掲げたところ大好評を博し、のちに美人を意味する「別嬪」の語源にもなったと伝えられています。
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