神奈川縣立金澤文庫の特別展「廃墟とイメージ」を觀る。

金澤流北條氏の祖である實時が収集した文物を収めるために創設した金澤文庫は、鎌倉幕府と共に一族が滅んだ後は菩提寺の稱名寺が管理してゐたものの、十年後には維持が困難となって次第に朽ち、戰國時代には大名の狼藉により収蔵品が散逸する憂き目に遭ふ。
朽ち果てた文庫は江戸時代になると跡形も無くなり、そこにはただ田畑が廣がるのみ云々。
會場に展示された廃墟への過程(みち)を描いたいくつもの佛古画より、序章で紹介された中世金澤文庫の顛末のはうが、私には“滅びの美學”として胸打つものがあった。
過日、私はたまたま昔日の稱名寺を冩した古い資料を手に入れた。
過日、私はたまたま昔日の稱名寺を冩した古い資料を手に入れた。

それには、釈迦堂前の野天に梵鐘が置かれた不思議な光景が記録されてゐる。
今回の特別展にはこれとほぼ同じ資料が展示されてゐて、大正十二年(1923年)九月一日の關東大震災で鐘楼が倒壊したため、残った石臺に鐘を仮置きしたもの、と解説があり、やっと疑問氷解!

この繪解きが、今回いちばんの収穫なり。