迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

東遊や偲ぶらん。

2017-11-03 20:08:46 | 現代手猿樂
世界中が戦争といふ狂気にはまり込んでゐた1940年代、一人の若いフランス人女性舞踊家が、日本の能楽に興味を抱き、独学に勤しんでゐた。

彼女の名は、エレーヌ•ジュグラリス。

1916年4月、ブルターニュ地方カンベールに生まれた彼女は、1920年代に舞踊を習ひ始め、やがて若手舞踊家として活動を始める。

しかし、従来の舞踊に飽き足りなくなった彼女は、さらなる模索と探求を続けるうち、ニッポンの“能楽”に出逢ふ。

これこそが、自分が求める舞踊芸術の極致であると直感したエレーヌは、なかでも「羽衣」に強く魅せられた。

しかし、世界中が戦争の坩堝と化してゐたこの時代、フランスにおゐてニッポンの能楽「羽衣」の資料を手に入れることは至難の業、独学は困難を極めたが、彼女の熱意は1948年3月28日、ギメ美術館における「羽衣」の初演によって結実する。



公演は大成功をおさめ、数カ所で再演を重ねるが、わずか三ヶ月後の6月、アトリエ劇場での上演中に倒れてしまふ。

奇しくも場面は、天人が空高く舞ひ上がらうとするところだった。

自作の天人の衣裳をまとったまま病院へと運ばれたエレーヌには、この作品をぜひ日本でも上演したいといふ、強い希望があった。

しかしそれも空しく、1951年7月11日、故郷のブルターニュで、35年の短い生涯を閉じた。

夫のマルセル•ジュグラリス氏が亡き妻の遺志により、その遺髪と手作りの衣裳を手に「羽衣」のふるさと静岡県清水市三保を訪れたのは、その年の11月のことだ。



遠い仏国の地で、我が国の伝統芸能に強く魅せられた若い女性のいたことに、敗戦に打ちひしがれてゐた当時の日本人は、深い感動をおぼえた。

やがて地元清水をはじめ、多くの人々の協力によってエレーヌ•ジュグラリスを顕彰する石碑が三保松原に建立されることになり、1952年(昭和26年)11月1日、除幕式が行なはれた。



彼女の遺髪は石碑の下に納められ、そして能楽師の二代目梅若万三郎によって能「羽衣」が追悼上演された。


マルセル氏が遺髪と共に持参した手作りの衣裳などは現在、清水中央図書館に設けられたメモリアルコーナーで、



土休日に観覧することができる。

手縫ひの衣裳の背中に大きく描かれた鳳凰を見ても、



エレーヌ•ジュラグリスが非凡な芸術家であったことが窺へる。



わたしも、やはり「羽衣」に魅せられた一人として顕彰碑に献花をし、“先輩”への敬意を表す。

そして、自らデザインして「駿河天人」と名付けた作品を、地元の文化祭の舞台にて、披露する。



初めは荘重に、後半には躍動感を出して変化をつけるなど、調子が単一とならぬやう、特に気をつけてデザインする。

あとは、今日のために稽古を重ねる。

壮年にして亡くなられた先輩の立師や、私の大好きな噺家の一人である先代桂小南が生前によく口にしてゐた、

「とにかく、何回でも稽古をするんだ」

の言葉は、芸事の最高の真理である。


今日、出番前に装束の裾を直してくれた他の参加者、また舞台袖でエスコートしてくれた舞台スタッフさんたちに、深く感謝する。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 六文銭の情。 | トップ | 新発明の功罪。 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。