
木曽川を横断する「今渡の渡し」は、対岸の太田宿では「太田の渡し」と、呼び名が異なっていました。
また、流れが急で川底も深かったことから、
“木曽のかけはし 太田の渡し 碓氷峠がなければよい”
と、言われるほどの難所でもありました。
渡し場は江戸時代の初期にはもっと下流にあり、「土田(どた)の渡し」と言われていましたが、やがてこの場所に移り、

昭和2年2月、すぐ上流に太田橋が開通するまで機能していました(ちなみに土田の渡しは、昭和35年まで存在)。
太田橋から対岸に渡り、木曽川に沿って進むうち、美濃太田市民会館裏に一里塚跡の碑を眼下に見て過ぎ、その先の神明水神公園から、宿場への道に入ります。
5分ほど行くと枡形があり、そこを通ると太田宿に到着。

↑写真は現存する脇本陣の建物。
本陣はそのお向かいにありましたが、現在は和宮下向の際に新築したという正門だけが遺っています。
宿場の京側のはずれには、現在は保育園となっている太田代官屋敷跡、明治の劇作家である坪内逍遥は、その代官の子として、安政六年に生まれました。
また、流れが急で川底も深かったことから、
“木曽のかけはし 太田の渡し 碓氷峠がなければよい”
と、言われるほどの難所でもありました。
渡し場は江戸時代の初期にはもっと下流にあり、「土田(どた)の渡し」と言われていましたが、やがてこの場所に移り、

昭和2年2月、すぐ上流に太田橋が開通するまで機能していました(ちなみに土田の渡しは、昭和35年まで存在)。
太田橋から対岸に渡り、木曽川に沿って進むうち、美濃太田市民会館裏に一里塚跡の碑を眼下に見て過ぎ、その先の神明水神公園から、宿場への道に入ります。
5分ほど行くと枡形があり、そこを通ると太田宿に到着。

↑写真は現存する脇本陣の建物。
本陣はそのお向かいにありましたが、現在は和宮下向の際に新築したという正門だけが遺っています。
宿場の京側のはずれには、現在は保育園となっている太田代官屋敷跡、明治の劇作家である坪内逍遥は、その代官の子として、安政六年に生まれました。