自宅で軟禁されながら映像鑑賞するのが、當世流(はやり)とやら。
“間”もヘッタクレも無い完全に自己陶酔な芝居なのに、それが不思議と“華”になって魅了する河原崎長十郎の武蔵坊弁慶、
甲に響く歯切れ良い台詞に惚れ惚れする中村翫右衛門の富樫左衛門、
だが、不思議と魅せられる。
なれば、今月の國立劇場公演が中止となった前進座の舞台を自宅で観やうと、學生時代にいとこに録画してもらった懐かしいVHSテープを、押入から引っ張り出す。
前進座を創立した河原崎長十郎、中村翫右衛門、河原崎国太郎たちによる「歌舞伎十八番の内 勧進帳」──
昭和三十九年に、現在は無い東京都の文京公会堂で録画された、前進座往年の存在意義を傅へる貴重映像。
“間”もヘッタクレも無い完全に自己陶酔な芝居なのに、それが不思議と“華”になって魅了する河原崎長十郎の武蔵坊弁慶、
甲に響く歯切れ良い台詞に惚れ惚れする中村翫右衛門の富樫左衛門、
繊細な容姿ながら線の太い発聲に、まさしく源氏の御大将であることを明確に印象付ける、河原崎国太郎の九郎判官義経──
これら強烈な個性は、木挽町あたりならば“諸先輩方”が寄ってたかって“矯正”し、潰しかねないものだ。
そんな否定されさうな“強烈な個性”の最たるものが、河原崎長十郎の歌舞伎演技だらう。
前述の通り見事なまでの自己陶酔ぶりは、“間”や“様式美”といったものは悉く無視──良く言へば“超越”──され、主演者の定番化が型を均一化させた木挽町の芝居を観慣れた者では、ただ奇異で困惑するばかりだらう。
私すら、およそ参考になる演技とは思はない。
だが、不思議と魅せられる。
これが、『役者の魔力』といふやつか。
河原崎国太郎の自傳によれば、舞台裏ではこの頃すでに、後年の“事件”へとつながる悶着があったらしい。
これこそが、役者といふ強烈な自己主張を寄せ集めた「組織」の、宿命だ。
かくして、組織より弾かれ劇界の主流から外れた河原崎長十郎は、そうなるキッカケとなった當時の支那思想にのめり込む舞台活動を独り續け、やがて没する。
晩年の河原崎長十郎を取材した山川静夫さんは、演劇を通した日支交流に活き活きとしてゐるやうに見せてゐたが、本心では今も前進座で歌舞伎を演じたかったに違ひない、と随筆のなかで見抜いておられる。
晩年の著作を讀むと、さうだったらうな、と私も感じる。
ザ・ドリフターズの仲本工事さんが、
「人生というのは、やりたいことが出来なくなった時が出発点だと思う」
と述べておられるのを讀んだことがある。
私もかつて組織と絶縁し、その代償に自分のやりたかったことの全てを喪ったと感じた時代があった。
實際には喪ったのではなく、見喪ってゐただけで、やがてひょんな御縁でそれを見つけ出して現在に至っていること、
「勧進帳」の武蔵坊弁慶を演じる機会を喪ひ、支那との文化交流に邁進してゐるやうに“振る舞った”河原崎長十郎のこと、
いま、為政者が緊急事態宣言を五月末まで延長し、我々への「制限」がますますの喪失感をもたらすであらうこと──
そこから「出発点」をいかに見つけ出すか──?
その時間だけは、たっぷりとある。
現在(いま)では望めない往年の前進座歌舞伎を観ながら、私は“かくれんぼ”の鬼を思ふ。