『JR東日本側は「全く乗れないほど混んではいない」と認識を説明。』──
つまり、乗客の“積み残し”が發生しないかぎり「混んでゐる」とは云へない、と認識してゐるやうに聞こえる。
鐵道會社の本心がよく表れた言ひ訳である。
昼間の減便ならばまだ話しは分かるが、朝夕の混雑する時間帯の減便とは、だう考へてもまともな神經ではない。
かういふ事態に陥るのは分かりきってゐるはずなのだが、それが分からないと云ふところに、目先の數字ばかりを見て現場の現實を見てゐない無能なセビロ組の、面目躍如たるものがある。
スマホばかりを見て、周りの現實世界を見てゐない“歩きスマホ”と同じ理屈だ。
どこの組織でもかういふ場合、若くて行動力のある有能な部下は愛想を尽かして退職してしまふので諌言する者もなく、その企業はますます負の沼へと嵌まり込んでしまふ。
どの會社路線も、せめて朝夕の本數は現状維持し、そのぶん昼間の本數を「見直し」することは出来なかったものか。
件の日光線は人災疫病禍以前だが、私も乗ったことがある。
觀光客のほかにも沿線住民の利用が多く、昼間でもガラガラと云ふ印象はない。
しかも宇都宮と云ふ新幹線も停車する街とつながってゐのだから、朝夕の混雑は私ですら容易に想像できる。
そこへ、減便したうへに車両を四両から三両に減らすなど全く狂気の沙汰、ただでさへ電車内で暴れる元気印が橫行するこのご時世、大昔の「上尾事件」や「赤羽事件」の再發を鐵道會社みずからが誘發してゐるとしか思へない。
確かに、乗客がドア付近に固まって無駄な混雑と遅延をつくってゐるのは事實である。
しかし、一編成の車両を減らしたのでは、いくら乗客が車内の奥へ詰めて協力したとしても、物理的に限界がある。
驛の係員を増やして誘導など、いたずらにホーム上の邪魔を増やすだけの小手先對策にすぎず、焼け石に水にもならぬ。
このあたりが、“シゴトしてゐる感”にだけは長けた無能なセビロ組にありがちな感覺と云へる。
この人災疫病禍で、浮世とヒトの本性が次々にあぶり出されてゐる感があるが、鐵道會社の場合、乗客の利便性より自分たちの都合が最優先といふ本音が露わになったと、私は見る。