迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

觀音解釈。

2022-04-17 09:53:00 | 浮世見聞記
ラジオ放送で、喜多流の「田村」を聴く。


清水寺の値千金な櫻と清水寺縁起、そして伽藍建立の檀那となった坂上田村麻呂(田村丸)の武勇譚がうまく融合された、“勝修羅三番”のうちのひとつ。

謠ひはすべてが謠ひどころであり──聴かせどころかどうかは謠ひ手次第───、謠ってゐるうちに清水寺を訪ねた氣分に浸れる間違ひなく春の名曲。



曲の後半、坂上田村麻呂が千手觀音の加勢を得て勢州鈴鹿の“惡魔”を鎮めた武勇が再現されるなかで、「還着於本人(げんじゃくおほんにん)」と觀音經の一節が謠はれる。



ここでは、「王威に仇を為すものは佛罰として還ってくる」と云ふ意味で用ゐられてゐる。

現代的に云へば、“ブーメラン”と云ったところか。

ミカドの威力を佛力に代行させるあたりに、その時その時の權力者に取り込まれることで生き伸びた猿樂らしさが窺へるが、觀音經(第二十五)を通覧しても、佛力を攻撃の道具として用ゐる箇所はどこにも見當たらない。

「還着於本人」は、あくまで“惡業は自分に還ってくる”と説いてゐるにすぎない。

つまり、“護身の術”として觀世音菩薩を信仰せよ、云ってゐると私は解釈する。

「心の糧とせよ」──


宗教を言ひ訳にしたドンパチが、どうも疑問に映るわけである。










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