土山宿を出ると、かつてはその先で田村川を徒渡りしていましたが、大水のたびに流される旅人が多く、宿場の悩みのタネでした。
そこで1775年、約600メートル上流に板橋を掛けて、通行の便宜をはかりました。
坂上田村麻呂ゆかりの「田村神社」の鳥居前を右折した先に、その橋は「海道橋」として復元されています(上段写真)。
橋を渡り、工場の間を抜けると、民家の間を行く坂道に差し掛かります。
ここを「蟹坂(かにがさか)」といい、このあたりは天文十一年(1542年)に北畠具教と山中丹後守秀国とが戦った、古戦場跡でもあります。
蟹坂を過ぎると国道1号線に合流、十分ほど行くと、旧道は左に折れて右カーブの急坂を下り、かつて立場が置かれていた土山町猪鼻──昔は猪鼻村と云った集落へと入っていきます。
旅籠跡に立つ明治天皇聖蹟の石碑を過ぎて集落を抜けると、再び右手に折れて坂を上り、国道1号線に合流。
さらに約十分ほど行った土山町の一里塚跡で、旧道は左に分岐します。
ここは旧東海道に現道の国道1号線、その上には新名神高速が通っており、
道の歴史を一望することができます。
分岐した旧道は1㎞ほどで再び国道1号線に合流、鈴鹿峠に向かって、緩やかに上って行きます。
なぜか土中に半分以上埋まった鳥居と石灯籠の前を過ぎてから上り車線の歩道へ移り、
やがて右へ入る道をさらに上って行くと、金毘羅参りの道中安全を祈願して建てたと云う常夜灯を過ぎ、標高375㍍の鈴鹿峠の頂上に着きます。
杉木立の入口に建つ平成十三年製の道標に従って峠を下りる前に、その先から西へ150㍍ほど入ったところに聳える「鏡岩」を、一見せばやと存じ候。
今は昔、この岩は鏡のような光沢を放っていたそうで、山賊がそこに映る旅人を見つけては襲っていたことから、「鬼の姿見」とも呼ばれた伝説があります。
学術的には、「断層が生じる際の強力な摩擦力で研磨されることによって表面が云々……」だそうですが、そういった小ムズカシイ話しはさておき、純粋に伝説を信じることにして、峠を下って行きます。
国道1号線を進んだ上りに対して、下りは昔ながらの山道、
“八丁二十七曲”と云われた曲折と勾配のきつい道を、転げ落ちないよう足許を注意しながら、下って行きます。
途中でワンクッションおいて国道1号線の高架下を抜け、山肌に沿って石畳の道をジグザグに下りきった右手には石垣の立派な片山神社、その前を左折してさらに坂を下って行くと、やがて国道1号線に合流します。
そこで1775年、約600メートル上流に板橋を掛けて、通行の便宜をはかりました。
坂上田村麻呂ゆかりの「田村神社」の鳥居前を右折した先に、その橋は「海道橋」として復元されています(上段写真)。
橋を渡り、工場の間を抜けると、民家の間を行く坂道に差し掛かります。
ここを「蟹坂(かにがさか)」といい、このあたりは天文十一年(1542年)に北畠具教と山中丹後守秀国とが戦った、古戦場跡でもあります。
蟹坂を過ぎると国道1号線に合流、十分ほど行くと、旧道は左に折れて右カーブの急坂を下り、かつて立場が置かれていた土山町猪鼻──昔は猪鼻村と云った集落へと入っていきます。
旅籠跡に立つ明治天皇聖蹟の石碑を過ぎて集落を抜けると、再び右手に折れて坂を上り、国道1号線に合流。
さらに約十分ほど行った土山町の一里塚跡で、旧道は左に分岐します。
ここは旧東海道に現道の国道1号線、その上には新名神高速が通っており、
道の歴史を一望することができます。
分岐した旧道は1㎞ほどで再び国道1号線に合流、鈴鹿峠に向かって、緩やかに上って行きます。
なぜか土中に半分以上埋まった鳥居と石灯籠の前を過ぎてから上り車線の歩道へ移り、
やがて右へ入る道をさらに上って行くと、金毘羅参りの道中安全を祈願して建てたと云う常夜灯を過ぎ、標高375㍍の鈴鹿峠の頂上に着きます。
杉木立の入口に建つ平成十三年製の道標に従って峠を下りる前に、その先から西へ150㍍ほど入ったところに聳える「鏡岩」を、一見せばやと存じ候。
今は昔、この岩は鏡のような光沢を放っていたそうで、山賊がそこに映る旅人を見つけては襲っていたことから、「鬼の姿見」とも呼ばれた伝説があります。
学術的には、「断層が生じる際の強力な摩擦力で研磨されることによって表面が云々……」だそうですが、そういった小ムズカシイ話しはさておき、純粋に伝説を信じることにして、峠を下って行きます。
国道1号線を進んだ上りに対して、下りは昔ながらの山道、
“八丁二十七曲”と云われた曲折と勾配のきつい道を、転げ落ちないよう足許を注意しながら、下って行きます。
途中でワンクッションおいて国道1号線の高架下を抜け、山肌に沿って石畳の道をジグザグに下りきった右手には石垣の立派な片山神社、その前を左折してさらに坂を下って行くと、やがて国道1号線に合流します。