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このあたりを元坂下といい、かつて坂下宿はこのあたりにあったのだそうです。
ところが、慶安三年(1650年)の大洪水によって宿場がことごとく流失、東へ約1㎞の場所に移転したのが、現在のこる坂下(さかのした)宿(↑写真)。
広大な敷地面積で有名だったと云う本陣も現在では茶畑となり、また道が拡幅しているために宿場町であった雰囲気は薄いものの、道沿いの至るところに残る石垣が、
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かつては鈴鹿越えを控えた宿場として、賑わいをみせていたであろうことを窺わせます。
河原ヶ谷橋を渡って宿場を出ると、鈴鹿川に沿ったのんびりとした道を三十分ほど行き、
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やがて「楢の木」バス停先で国道1号線に合流、カーブの続く道をしばらく行ったところで振り返ると、向こうには筆捨山が。
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もともとは岩根山と云いましたが、室町時代の絵師で“狩野派”二代目の狩野元信がこの山を描こうとして、残りは翌日に描くつもりでいたところ、雲や霞がかかって描くことかなわず、諦めて筆を捨てたことから、その名がついたのだとか。
ちなみにかつてこのあたりには、人目を忍んで美女を揃え、売春まがいのことをやっていた茶屋があったそうな。
国道を二十分ほど行ったところで旧道は左へ分かれて、市瀬という集落を通り、
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一度国道を渡って「はねかけ橋」を通った先で再び国道に合流。
しばらく行くと、伊賀上野へ通じる大和街道との追分を示す髭題目の石碑を過ぎ、古代には鈴鹿の関が置かれていたことからその名が付いたと云う、関宿に到着。
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いまでは古写真でしか見られない昔日の宿場町の雰囲気がそっくりそのまま残されているのは、「よくぞここまで!」と、感動的ですらあります。
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また、道沿いの格子を外して、はね上げてある床几を下ろせば、たちまち店先に早変わりする、
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こうした京都の古い町屋と同じ合理的な工夫の施された家屋も、いまでは貴重な文化財です。
伊勢別街道との分岐点である東の追分を過ぎると、町並みは少しづつ現代風になり、道沿いの真新しい住宅分譲地に、ふと現代の現実を感じてしまいます。
宿はずれで道は左にカーブ、今はむかし亡き母の遺志を受け継いで見事に仇討ちを果した“関の小萬”という女性が、戯れかかる男たちから身を隠したと云う「小萬のもたれ松」を右にみて、一里二十四町(6.5㎞)先の亀山宿をめざします。
ところが、慶安三年(1650年)の大洪水によって宿場がことごとく流失、東へ約1㎞の場所に移転したのが、現在のこる坂下(さかのした)宿(↑写真)。
広大な敷地面積で有名だったと云う本陣も現在では茶畑となり、また道が拡幅しているために宿場町であった雰囲気は薄いものの、道沿いの至るところに残る石垣が、
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かつては鈴鹿越えを控えた宿場として、賑わいをみせていたであろうことを窺わせます。
河原ヶ谷橋を渡って宿場を出ると、鈴鹿川に沿ったのんびりとした道を三十分ほど行き、
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やがて「楢の木」バス停先で国道1号線に合流、カーブの続く道をしばらく行ったところで振り返ると、向こうには筆捨山が。
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もともとは岩根山と云いましたが、室町時代の絵師で“狩野派”二代目の狩野元信がこの山を描こうとして、残りは翌日に描くつもりでいたところ、雲や霞がかかって描くことかなわず、諦めて筆を捨てたことから、その名がついたのだとか。
ちなみにかつてこのあたりには、人目を忍んで美女を揃え、売春まがいのことをやっていた茶屋があったそうな。
国道を二十分ほど行ったところで旧道は左へ分かれて、市瀬という集落を通り、
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一度国道を渡って「はねかけ橋」を通った先で再び国道に合流。
しばらく行くと、伊賀上野へ通じる大和街道との追分を示す髭題目の石碑を過ぎ、古代には鈴鹿の関が置かれていたことからその名が付いたと云う、関宿に到着。
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いまでは古写真でしか見られない昔日の宿場町の雰囲気がそっくりそのまま残されているのは、「よくぞここまで!」と、感動的ですらあります。
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また、道沿いの格子を外して、はね上げてある床几を下ろせば、たちまち店先に早変わりする、
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こうした京都の古い町屋と同じ合理的な工夫の施された家屋も、いまでは貴重な文化財です。
伊勢別街道との分岐点である東の追分を過ぎると、町並みは少しづつ現代風になり、道沿いの真新しい住宅分譲地に、ふと現代の現実を感じてしまいます。
宿はずれで道は左にカーブ、今はむかし亡き母の遺志を受け継いで見事に仇討ちを果した“関の小萬”という女性が、戯れかかる男たちから身を隠したと云う「小萬のもたれ松」を右にみて、一里二十四町(6.5㎞)先の亀山宿をめざします。