迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

げいじゅつか、ごらくか。

2012-04-14 18:44:07 | 浮世見聞記
先日、アメリカでバスの運転手が走行中に心臓麻痺を起こして意識を失い、乗車していた十代の少年が咄嗟の判断でバスを停めて運転手に心臓マッサージを施して難を救った、と云うニュースを見た。

その後の取材で少年は、救命行動について、

「前に読んだ漫画(コミック)の主人公がやっていた通りに実行した」

と答えたと云う。

そのシーンを明確に記憶していた少年もさることながら、これは社会的に眉を顰められがちな“漫画”にとっても、大いに名誉を回復する話しではないだろうか。


初めに断っておくが、私は決して漫画マニアではなく、また擁護者でもない。


だが、漫画と云うものが、作者の“想像力”と“創造力” とが高度に結晶した、素晴らしい芸術(アート)であることは、私も理解しているつもりだ。


「釣りキチ三平」の作者である矢口高雄さんが、かつてインタビューのなかで、

「漫画と云うのは、絵画と小説(文章)とが高いところで融合した、最高の芸術なのです」

と力をこめておっしゃられているのを聞いて、なるほどな、と思ったことがある(だからと言って、すべての漫画がそうであると限らないことも、また事実である)。



何年も前になるが、良いのは血筋だけ、あるのはおカネだけの某首相が、「国立漫画喫茶構想」なるものを立ち上げようとして、世間から大いに非難されたことがあった。

当然立ち消えになったが、その時世間が「けしからん!」と怒った対象は、漫画そのものより、それを手に取る者たちの方へ向けられていた印象がある。

「なんであんな連中のために、我々の税金が使われなくてはならんのだ!」

と。

電車内で、スーツ姿の若い会社員の男性が、鞄から恭しく取り出したのがコミック本であるのを見て、情けなく思ったのは私だけではないだろう。

しかも、人目も憚らず緩みきった表情でそれを開かれた日には、何をかいわんや、である。



漫画そのものに罪はない。


問題なのは、

それを手にする側の、

レベルだ。
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