もふ一昔前のことになるが、すでに故人となってゐた忘流狂言方について、「あの狂言師の舞薹は、笑へたことがなかった」と、はっきり云った人がゐた。
笑ひを誘ふはずの狂言で、「笑へない」藝なんてものがあるのか、と當時の私には理解が難しかったが、今回ラジオで放送された和泉流野村万藏一派の狂言三番を聞くと、さういふことか、と頷ける。
仲違ひして久しいが、野村萬、万作兄弟を以て、殘念ながら野村狂言の藝の味は打ち止めとなり、以後の代からは身振り口振りだけの“物真似”にすぎなくなる──
藝界者にはよく、“藝道のキビシさ”をやたら嬉しさうに語る苦勞自慢がゐるが、藝の本當のコワさキビシさは、「誰もが遺傳しないことである」と、私は愛好者の立場から思ふのである。