大晦日に確認された東京都の感染者數1,337人──
全國では4,500人を超ゆる──
令和二年の掉尾に、これほど相應しい咄もあるまい。
まるで、今日のために取って置ひたかのやうだ。
令和二年とはどんな年だったのか、上の數字が簡潔に示してゐる。
そんな令和二年、
なんとか今日まで無事に生きて来られた──
さう深く實感せざるを得ない一年。
そして、惜しい人ばかりが感染で亡くなり、だうでもいいヒトばかりが命拾ひをする、そんな浮世の真景をイヤといふほど見せつけられた一年。
──もっとも、命拾ひは“助かった”にあらず、ただ閻魔様に『こっちもいらん!』と追ひ返されたにすぎない「三界に家なし」、生還者と見做すのは、本當にさうである方たちに失礼と云ふものだ。
手猿樂師としての活動は―・二月の三演に留まり、春以降の催しは當然のこととして全て中止、一瞬の落胆の後、「これからだうなるのだらう……」と深い不安と緊張に見舞はれ、今日に至る。
しかし、基本的な感染予防さへ心得てゐれば問題のない新たな樂しみに出逢ひ、まったくそのおかけで憂ふことなく初夏、盛夏、秋、冬と日を過ごす。
秋には、「疫病で寂れた街を音樂とダンスで盛り上げやう!」などと、時節柄全くのばかモノとしか言ひやうのない催しの参加案内が届ひたが、もちろん呼應せず。
しかし“類は友を呼ぶ”とやら、本當に参加した尻輕が多數ゐたやうで、そのやうな時世知らずなタダの目立ちたがり屋に堕ちぬためにも、いまこそ関ヶ原と兜の緒を締め直す。
その催しは結局話題にもならず、その後の案の定な國難を見るにつけ、まったくいい面の皮だとつくづく思ふ。
その一方で、熟考の結果今年は中止と、苦渋にして正しい判断を下した主催者も多くゐて、これからの活動のためにも、信用出来る主催者かさうでない者かの判別が出来たこと──それが、手猿樂師としての私の、令和ニ年いちばんの収穫である。
来る年も、舞台で手猿樂を舞ふことは難しいだらう。
現状の生活を維持することに徹する一年となるだらう。
だがそれでも良い。
それで、余人の如くドジを踏まずにすむのなら──