「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

         戦災の瓦礫整理に動員された頃

2011-10-02 06:12:45 | Weblog
原発事故で「緊急時避難準備地区」に指定されていた住民が政府の指定解除によって約5か月ぶりに帰還できるようになった。放射能線量の除染の問題は完全には解決されていないようだが、とにもかくにも政府が帰還を許可したのだ。まずは原発事故収束にむかって一歩前進である。これが復興への弾みになってもらいたい。

敗戦の年の10月、僕は中学3年生だったが、学校の命令で東京の旧品川区役所近くの第一京浜国道沿いで戦災の瓦礫整理に1か月動員された。この地域は5月23日の空襲で一面焼け野原になった。10月といえば空襲から5か月経っていたのだが、国道の路肩には瓦礫がうず高く積まれていた。僕らは瓦礫運搬にきたトラックにこれを手作業で積み込む作業に従事した。

当時の東京の人口は、何度かの空襲と事前の疎開で激減していた。海外の戦地から働き手の若い人はまだ復員してこない。子供の姿もあまり見られなかった。戦争で各地に集団疎開した学童たちがようやく東京に帰れてたのは10月になってからである。

瓦礫整理に狩り出された僕らの仲間の中には、毎日疎開先の熱海からわざわざ通ってくる者もいた。当時東京では、食糧難から疎開先からの転入を抑制していたため、都内に自宅がある者でない限り転入できなかった。

戦争中と同様、僕らは”お国のため”に瓦礫整理に当たった。戦争が終わって工場動員からやっと学校に戻れたのに、勉強できたのは9月1か月だけだ。第一京浜国道には進駐軍のトラックやジープが疾走していたが、いた痛げな僕ら子供が働いているのを見て同情したのであろう。時には「ラッキー・ストライク」(タバコ)を投げてくれる黒人兵もいた。僕らは、これを換金して皆で映画館へ出かけた。こんな時代でも子供はこどもだった。