大阪市の橋元徹知事が「大阪府」と「大阪市」の二重行政刷新を狙って来月の市長選に自ら立候補、府知事の後釜には、同じ地域政党「維新の会」の松井一郎幹事長を擁立した。東京都と23区をモデルにしたという橋元氏の構想が、果たしてそのシナリオ通りにゆくかどうかだがー。
戦前、僕が子供だった時には、東京も「府」と「市」が共存していた。僕の戸籍謄本の出生地は"東京府荏原郡大崎町”である。東京府は明治政府の誕生とともに出来、1943年(昭和18年)まで存在した。一方、東京市は明治22年に出来、同じく昭和18年「府」と「市」が一緒になるまであった行政機関である。
子供だったこともあるが、僕は「東京市民」の意識はあるが「東京府民」の想い出はない。10月1日は東京市民の記念日であった。確かこの日は学校の授業はなく、お祝いの式だけで「東京市民の歌」を皆で歌った。
♯ 「東京市民の歌」(大正15年制定)
紫にほひし武蔵野の野辺に 日本の文化の華咲きみだれ
月影いるべき山の端もなし むかしの広野のおもかげもなし
調べてみると、戦前の東京府知事は官選であったが、市長は昭和4年以降は市議会の互選によって選ばれた。「府知事」と「市長」の権限がどうなのか、今ひとつわからないが、内務省の権限が強かった時代だが、東京府庁は東京市役所の中にあった。中学校(旧制)や高等女学校もは”府立”と"市立”と二つあったが、小学校は区立であった。
橋元氏のめざす「大阪都」構想はわからないではない。でも肝心の大阪府民(市民)の反応はどうなのか。”維新”が、たんなる政治家個人の”我欲”にも映らないでもない。
戦前、僕が子供だった時には、東京も「府」と「市」が共存していた。僕の戸籍謄本の出生地は"東京府荏原郡大崎町”である。東京府は明治政府の誕生とともに出来、1943年(昭和18年)まで存在した。一方、東京市は明治22年に出来、同じく昭和18年「府」と「市」が一緒になるまであった行政機関である。
子供だったこともあるが、僕は「東京市民」の意識はあるが「東京府民」の想い出はない。10月1日は東京市民の記念日であった。確かこの日は学校の授業はなく、お祝いの式だけで「東京市民の歌」を皆で歌った。
♯ 「東京市民の歌」(大正15年制定)
紫にほひし武蔵野の野辺に 日本の文化の華咲きみだれ
月影いるべき山の端もなし むかしの広野のおもかげもなし
調べてみると、戦前の東京府知事は官選であったが、市長は昭和4年以降は市議会の互選によって選ばれた。「府知事」と「市長」の権限がどうなのか、今ひとつわからないが、内務省の権限が強かった時代だが、東京府庁は東京市役所の中にあった。中学校(旧制)や高等女学校もは”府立”と"市立”と二つあったが、小学校は区立であった。
橋元氏のめざす「大阪都」構想はわからないではない。でも肝心の大阪府民(市民)の反応はどうなのか。”維新”が、たんなる政治家個人の”我欲”にも映らないでもない。