ジャカルタで最も古い日本料理店「菊川」の経営者、菊池輝武さん(92)が亡くなられた。「菊川」は1969年(昭和44年)、ジャカルタの中心のチキニに店開きした。ちょうどオバマ少年(大統領)が、両親に連れられてハワイからやってきた頃だ。以来「菊川」はジャカルタ在住の日本人にとって、故郷の味を楽しめる憩いの場として親しまれてきた。
菊池さんは佐賀県の生まれで、戦争中はバンドンにあった旧日本軍の兵器廠勤務の軍属だったが、そこで知り合ったセレベスのメナド出身の女性と結婚、戦後夫人を伴って日本に帰国した。昭和30年代から平成の初め頃にかけて、菊池さんは東京の六本木でインドネシア料理店「ブンガワンソロ」を経営していたが、1969年、渡航の自由化が許可になり、ジャカルタでも日本料理店を開いた。
菊池さんとインドネシアの初代大統領スカルノ家との交際は古く、戦争中にまでさかのぼるが、特に親しくなったのは「菊川」がオープンしてからだ。当時スカルノ氏は65年のクーデター未遂事件に関与していたという理由で大統領の座を追われなかば幽閉状態にあった。日本人の中にもスカルノ氏を避けていた人が多かったが、菊池さんは交際を続け、のちに第五代大統領になった、スカルノ氏の長女、メガワティさんが、庶民の足「べチャ」(三輪人力車)に乗って「菊川」にちょくちょく現れたのは有名な話だ。
菊池さんは義侠心の強い人だった(ジャカルタ勤務の長かった外交官の話)戦後インドネシアに残留した日本軍の軍人、軍属の会「福祉友の会」の会員ではなかったが、同会の創設者、故乙戸昇の親友で、物心ともに同会を援助してきた。しかし、決してこれを表にだして言う人ではなかった。僕はジャカルタに行けば必ず「菊川」に出かけ、菊池さんと話をするのが楽しみだったが、もうそれが出来なくなった。一つの時代が終わった。菊池さん、安らかに永眠ください。合掌。
菊池さんは佐賀県の生まれで、戦争中はバンドンにあった旧日本軍の兵器廠勤務の軍属だったが、そこで知り合ったセレベスのメナド出身の女性と結婚、戦後夫人を伴って日本に帰国した。昭和30年代から平成の初め頃にかけて、菊池さんは東京の六本木でインドネシア料理店「ブンガワンソロ」を経営していたが、1969年、渡航の自由化が許可になり、ジャカルタでも日本料理店を開いた。
菊池さんとインドネシアの初代大統領スカルノ家との交際は古く、戦争中にまでさかのぼるが、特に親しくなったのは「菊川」がオープンしてからだ。当時スカルノ氏は65年のクーデター未遂事件に関与していたという理由で大統領の座を追われなかば幽閉状態にあった。日本人の中にもスカルノ氏を避けていた人が多かったが、菊池さんは交際を続け、のちに第五代大統領になった、スカルノ氏の長女、メガワティさんが、庶民の足「べチャ」(三輪人力車)に乗って「菊川」にちょくちょく現れたのは有名な話だ。
菊池さんは義侠心の強い人だった(ジャカルタ勤務の長かった外交官の話)戦後インドネシアに残留した日本軍の軍人、軍属の会「福祉友の会」の会員ではなかったが、同会の創設者、故乙戸昇の親友で、物心ともに同会を援助してきた。しかし、決してこれを表にだして言う人ではなかった。僕はジャカルタに行けば必ず「菊川」に出かけ、菊池さんと話をするのが楽しみだったが、もうそれが出来なくなった。一つの時代が終わった。菊池さん、安らかに永眠ください。合掌。