大学生の孫のLCC(格安航空券)を使ってのアジア貧乏旅行は3週目に入り、先日クアラルンプ-ルから南インドタミール.ナンドゥ州ののティルッチラッパリ空港に到着した、とメール連絡があった。この舌をかみそうな空港がどこにあるのか恥ずかしながら知らなかったが、孫はここを出発してマドゥライ、カーニャクマリ、コーラム、コーチン、ゴア、ハンビ、ムンバイと2週間にわたって安宿と夜行バスを使って旅行する。
東京で最古のインド料理店、銀座の「ナイル」の創業者、A.M.ナイルさん(故人)は、南インドケララ州の出身だ。戦前インドが英国の植民地時代の独立運動家で、英国官憲に追われて日本に亡命してきた。彼は当時日本を拠点に独立運動をしていた”中村屋のビハリー.ボース氏とともに昭和18年10月、シンガポールに、チャンドラ.ボース氏を首班とする「インド自由政府を」を樹立した功労者である。70年前のことである。
戦後の連合軍市ヶ谷極東裁判で、インド人のパール判事がただ一人、日本無罪論を主張したのは有名な話である。戦後まだ戦火の瓦礫の中で生活していた東京の子供たちに夢を与えようと、当時のネール首相が、上野の動物園に自分の娘の名前を付けた象を寄贈してくれた。日本各地にある仏舎利も、日本からの戦時賠償金に対する、そのお返しとして贈られたものである。
孫がどの程度過去の日印関係について理解しているか解からないが、実際に現地に行きインドの人と接触することは意義のあることだ。過去の”歴史認識”にこだわっている反日国家には、若者も行きたがらない。困ったことだが、随分偏屈な心の人たちであろう。
東京で最古のインド料理店、銀座の「ナイル」の創業者、A.M.ナイルさん(故人)は、南インドケララ州の出身だ。戦前インドが英国の植民地時代の独立運動家で、英国官憲に追われて日本に亡命してきた。彼は当時日本を拠点に独立運動をしていた”中村屋のビハリー.ボース氏とともに昭和18年10月、シンガポールに、チャンドラ.ボース氏を首班とする「インド自由政府を」を樹立した功労者である。70年前のことである。
戦後の連合軍市ヶ谷極東裁判で、インド人のパール判事がただ一人、日本無罪論を主張したのは有名な話である。戦後まだ戦火の瓦礫の中で生活していた東京の子供たちに夢を与えようと、当時のネール首相が、上野の動物園に自分の娘の名前を付けた象を寄贈してくれた。日本各地にある仏舎利も、日本からの戦時賠償金に対する、そのお返しとして贈られたものである。
孫がどの程度過去の日印関係について理解しているか解からないが、実際に現地に行きインドの人と接触することは意義のあることだ。過去の”歴史認識”にこだわっている反日国家には、若者も行きたがらない。困ったことだが、随分偏屈な心の人たちであろう。