ここ数年消息がなかった北スマトラ(インドネシア)メダンのインド系住民ケネディ君から手紙が届いた。1997年(平成9年)僕がメダンの外国学校で日本語をちょっと教えていた時の生徒だ。今どき珍しい手書きの日本語で書かれてある。自分の近況と共に、この夏メダン郊外に完成したクアラ.ナム空港について誇らしげに書いている。
北スマトラは、かってオランダ時代、完全に植民地経済の支配下にあった。これまでメダン市内にあったポロニア空港は世界一生産量を誇った葉タバコ農園の跡で、ポロ二アは農園主の名前をとったものだった。今、メダン近郊には、ほとんど葉タバコなど生産していないが。このポロ二ア空港は狭く設備も古く、事故の多い空港として関係者の間で評判が悪かった。僕が滞在していた時も事故があり、日本人数名が死亡している。
そんな訳でメダン空港の移転はインドネシア航空界全体の問題だったが、やっと10数年来の計画が実現した。新しいクアラ.ナム空港はメダンから40㌔離れたディリ.セルダン県にある。マラッカ海峡の海岸から3キロの油ヤシ農園跡に建設された。1365haという広大な敷地である。油ヤシもオランダ植民地時代の産物である。ゴム農園と共にオランダ植民地経済を支えてきた。しかし、最近は油ヤシの焼畑に伴う煙害で近隣諸国からクレームが出て転換期に来ていた。
クアラ.ナム空港のあるディリ.セルダンは、かってこの地方にあった土侯国(首長国)の名前である。僕はメダン滞在中、セルダン土侯国の末裔、ルクマン.シナ―ル氏(北スマトラ大学講師)と知り合いになったが、同国の最後のサルタンは明治31年、一族郎党を連れ船で日本へ渡り、明治天皇に拝謁したという記録がセルダン側には残っている。1999年、ルクマン.シナ―ル氏を日本に招き調べたが、残念ながら日本側には記録はなかった。昭和17年、日本軍(第25軍)が上陸したのもクアラ.ナム近くのタンジュン.ティラムの海岸である。
色々過去の歴史をしのびながら、新しく急速に発展しつつあるメダンの地を再訪したいと思っているのだが、身体が許すかどうかである。
北スマトラは、かってオランダ時代、完全に植民地経済の支配下にあった。これまでメダン市内にあったポロニア空港は世界一生産量を誇った葉タバコ農園の跡で、ポロ二アは農園主の名前をとったものだった。今、メダン近郊には、ほとんど葉タバコなど生産していないが。このポロ二ア空港は狭く設備も古く、事故の多い空港として関係者の間で評判が悪かった。僕が滞在していた時も事故があり、日本人数名が死亡している。
そんな訳でメダン空港の移転はインドネシア航空界全体の問題だったが、やっと10数年来の計画が実現した。新しいクアラ.ナム空港はメダンから40㌔離れたディリ.セルダン県にある。マラッカ海峡の海岸から3キロの油ヤシ農園跡に建設された。1365haという広大な敷地である。油ヤシもオランダ植民地時代の産物である。ゴム農園と共にオランダ植民地経済を支えてきた。しかし、最近は油ヤシの焼畑に伴う煙害で近隣諸国からクレームが出て転換期に来ていた。
クアラ.ナム空港のあるディリ.セルダンは、かってこの地方にあった土侯国(首長国)の名前である。僕はメダン滞在中、セルダン土侯国の末裔、ルクマン.シナ―ル氏(北スマトラ大学講師)と知り合いになったが、同国の最後のサルタンは明治31年、一族郎党を連れ船で日本へ渡り、明治天皇に拝謁したという記録がセルダン側には残っている。1999年、ルクマン.シナ―ル氏を日本に招き調べたが、残念ながら日本側には記録はなかった。昭和17年、日本軍(第25軍)が上陸したのもクアラ.ナム近くのタンジュン.ティラムの海岸である。
色々過去の歴史をしのびながら、新しく急速に発展しつつあるメダンの地を再訪したいと思っているのだが、身体が許すかどうかである。