野球の神様、読売巨人軍の川上哲治監督が亡くなられた。巨人軍を11回も優勝させた名監督だが、僕らの世代には背番号16の巨人軍一塁手川上の豪快な打撃のほうが目に残っている。川上の赤バット、大下(セネターズ)の青バットとよく言われるが、調べてみると川上が赤バットを使用したのは戦後すぐの昭和22年のシーズンだけだったようだ。
戦争で中断されていたプロ野球の公式戦が復活したのは昭和21年のシーズンからだが、当時は学生野球の方がまだ人気があった。戦争が終わってまもなくの11月4日、僕は”弁当持ちで神宮外苑球場に野球見物”に行っている(亡父の日記)六大学野球のオール早慶戦だったような気するが、プロ野球も11月、東西対抗戦をやった記録も残っており、もしかするとこの試合だったかもしれない。同じくその当時の事のだだと思うのだが、満員の後楽園球場のスコアボードによじ登り観戦、ズボンを破った想い出もある。が、この試合には、なだプロ入り前の別当馨選手がセンターを守っていたからアマの試合だったのは間違いない。
プロ野球が巨人軍人気と相まって国民的に盛んになったのは、昭和24年以降ではないだろうか。特に当時の少年たちの人気は大変なものだった。少年たちはみな巨人軍のマークの野球帽をかぶっていた。その当時紅梅キャラメルが少年たちに好まれ、おまけの巨人軍選手のカードを集めて景品のミットやバットと交換するのが流行していた。今の70歳前後の方にはその想い出があるに違いない。
プロ野球も川上監督のV9時代に比べれば人気は落ちてきている。あのころは巨人軍の試合は全試合テレビで放映していた。今はめったにない。川上さんの逝去は一つの時代の終りを感じる。
戦争で中断されていたプロ野球の公式戦が復活したのは昭和21年のシーズンからだが、当時は学生野球の方がまだ人気があった。戦争が終わってまもなくの11月4日、僕は”弁当持ちで神宮外苑球場に野球見物”に行っている(亡父の日記)六大学野球のオール早慶戦だったような気するが、プロ野球も11月、東西対抗戦をやった記録も残っており、もしかするとこの試合だったかもしれない。同じくその当時の事のだだと思うのだが、満員の後楽園球場のスコアボードによじ登り観戦、ズボンを破った想い出もある。が、この試合には、なだプロ入り前の別当馨選手がセンターを守っていたからアマの試合だったのは間違いない。
プロ野球が巨人軍人気と相まって国民的に盛んになったのは、昭和24年以降ではないだろうか。特に当時の少年たちの人気は大変なものだった。少年たちはみな巨人軍のマークの野球帽をかぶっていた。その当時紅梅キャラメルが少年たちに好まれ、おまけの巨人軍選手のカードを集めて景品のミットやバットと交換するのが流行していた。今の70歳前後の方にはその想い出があるに違いない。
プロ野球も川上監督のV9時代に比べれば人気は落ちてきている。あのころは巨人軍の試合は全試合テレビで放映していた。今はめったにない。川上さんの逝去は一つの時代の終りを感じる。