49年前の10月10日は第18回東京五輪の開幕式のあった日だ。それを記念してこの日が「スポーツの日」として国民の祝日となったが、いつか”ハッピーマンデイ”制の導入で10月の第三月曜となり、そのためなのだろうか、東京五輪そのものさえ国民の記憶から薄れ始めてきていた。しかし、今年は2020年五輪の開催決定で、改めて昭和39年10月10日の、あの感激がよみがえってきた。”世界中の青空を全部東京にあつめた”(NHK アナの実況放送)快晴の下での開会式であった。
当時僕は新聞社の外信部勤務で、外国語に堪能な仲間は五輪取材要員として動員されたが、ぼくは留守番役にまわった。ゲームが見られず残念だったが、どうせ紙面は五輪一色、楽が出来ると内心喜んでもいた。ところが開催6日目の16日、夜勤シフトであったが、五輪を吹くきとばすビッグニュースが二つも飛び込んできた。一つは当時東西冷戦体制の下、東側の旗頭、ソ連のフルシチョフ第一書記が辞任し、ブレジネフが新任されたというタス通信の発表。もう一つは中国がタグラマン砂漠で初めての原爆実験に成功したというニュースだ。
五輪取材にさかれて、たしか外信部デスク体制は僕を含めて二人だった。幸い、一人はロシア語の専門家だったのでソ連のニュースには対応できたが、中国の突然の核実験の発表には困った。今、考えると、世界の目が東京五輪に集中していた時を狙っての実験だった。東京五輪には中国は選手を派遣していなかった。僕にとっては前回の東京五輪の想い出は”東洋の魔女”でもマラソンの円谷選手の銅メダルでもなく、フルシチョフであり、中国の核実験である。
昭和47年2月の冬の五輪の際も僕は札幌の民間テレビに勤務していたが、、開局前の多忙期で試合を見ていない。五輪にはよほど縁がない。次回2020大会はどうだろうか。
当時僕は新聞社の外信部勤務で、外国語に堪能な仲間は五輪取材要員として動員されたが、ぼくは留守番役にまわった。ゲームが見られず残念だったが、どうせ紙面は五輪一色、楽が出来ると内心喜んでもいた。ところが開催6日目の16日、夜勤シフトであったが、五輪を吹くきとばすビッグニュースが二つも飛び込んできた。一つは当時東西冷戦体制の下、東側の旗頭、ソ連のフルシチョフ第一書記が辞任し、ブレジネフが新任されたというタス通信の発表。もう一つは中国がタグラマン砂漠で初めての原爆実験に成功したというニュースだ。
五輪取材にさかれて、たしか外信部デスク体制は僕を含めて二人だった。幸い、一人はロシア語の専門家だったのでソ連のニュースには対応できたが、中国の突然の核実験の発表には困った。今、考えると、世界の目が東京五輪に集中していた時を狙っての実験だった。東京五輪には中国は選手を派遣していなかった。僕にとっては前回の東京五輪の想い出は”東洋の魔女”でもマラソンの円谷選手の銅メダルでもなく、フルシチョフであり、中国の核実験である。
昭和47年2月の冬の五輪の際も僕は札幌の民間テレビに勤務していたが、、開局前の多忙期で試合を見ていない。五輪にはよほど縁がない。次回2020大会はどうだろうか。