大東亜会議と銘打っても、この会議には旧英領、旧蘭領地域からの参加はなかった。その理由は会議決定を決めた5月の「大東亜政略指導大綱」に次のような規定があったからだ。▽マライ、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスは帝国領土と決定し、重要資源の供給源として極力これの開発並びに民心の把握に勉む▽これら地域に対して当分軍政を維持する。
大東亜共栄圏の第一歩ともいうべき会議だったが、マライ、インドネシアの不参加は会議にとって瑕瑾(玉の傷)であった。会議の席上でもフィリッピンのホセ,ラウレル大統領が、この点に触れ不満を表明している。たしかに、これは日本の唱える大東亜共栄圏構想に矛盾するところがあった。大綱が発表になった後、ジャワ、スマトラなど各地の独立指導者を中心に、日本への不満が爆発した。このため、翌19年には住民に対し独立国旗の掲揚と国歌を歌うことが許され、さらに20年3月には独立準備委員会が発足した。
軍の一部には、もともと自然資源の豊富な英領マレーと蘭印については日本の領土とすべきと考えていたようだ。昭和17年4月の天長節(天皇誕生日)に際し、山下奉文司令長官は集まったシンガポールの群衆に対して”新附の民”という言葉を使っている。”新附の民”とは新しく日本国籍を与えられる民の事である。
有色人種だけが集まって初めて開催された会議である。この点は高く評価するが、一方では、こういった事実もあった。70周年に当たり、一部に大東亜会議を意識的に過大評価する動きがあるが、歴史は冷静にみたいものである。、
大東亜共栄圏の第一歩ともいうべき会議だったが、マライ、インドネシアの不参加は会議にとって瑕瑾(玉の傷)であった。会議の席上でもフィリッピンのホセ,ラウレル大統領が、この点に触れ不満を表明している。たしかに、これは日本の唱える大東亜共栄圏構想に矛盾するところがあった。大綱が発表になった後、ジャワ、スマトラなど各地の独立指導者を中心に、日本への不満が爆発した。このため、翌19年には住民に対し独立国旗の掲揚と国歌を歌うことが許され、さらに20年3月には独立準備委員会が発足した。
軍の一部には、もともと自然資源の豊富な英領マレーと蘭印については日本の領土とすべきと考えていたようだ。昭和17年4月の天長節(天皇誕生日)に際し、山下奉文司令長官は集まったシンガポールの群衆に対して”新附の民”という言葉を使っている。”新附の民”とは新しく日本国籍を与えられる民の事である。
有色人種だけが集まって初めて開催された会議である。この点は高く評価するが、一方では、こういった事実もあった。70周年に当たり、一部に大東亜会議を意識的に過大評価する動きがあるが、歴史は冷静にみたいものである。、