これは 私のための記録...
8月の初旬の金曜日の夜
千葉に住む父から「喉が痛くて、熱もある」と電話があり
翌土曜日 すぐ最寄りの発熱外来に同行することにした。
最寄りと言っても、発熱外来は どこも歩いて30分近くかかる。
実家には車がなく、その日オットはたまたま用があって出ており
かと言ってタクシーは 発熱があると乗車を拒否される。
私も 実家を離れて20年以上、地理にも地域の情報にも疎い。
その時はあまり頭が回らず
やむなく炎天下 父を連れて歩いて病院に行った。
その病院の発熱外来は、プレハブに隔離され診察はスマホを介して。
喉が痛いと強く訴えても、診てもらうこともできず
しかもコロナのPCR検査の結果は月曜日にならないと出ないと言う…
薬だけ出してもらい
用事が済んだオットに来てもらって 一旦実家に帰る。
でも 父は炎天下歩いたこともあってか、本当に具合が悪そうで
この暑いのに水を飲むのも喉が痛くてできない と訴える。
当然 薬も飲めない。
心配になって 夕方救急外来に連れていく。
ちゃんと喉を見て、採血やレントゲンも撮ったりしてもらったら
炎症反応は高いが緊急性はなさそう ということで入院せず帰宅。
私も一度家に帰ったのだが
翌日お昼に 父と同居している弟から
「お父さんが倒れた。救急車で昨日の病院(2件目)に向かっている。」
もう何がなんだか...
喉に膿が溜まっていて それが呼吸や嚥下を阻害しているため
取り除く手術をするが 執刀医の到着まで時間がかかるとー。
待つだけ待って、手術室に運ばれた頃には
もう手術できる状態ではない と言う…
そうして月曜未明に 父は亡くなった。
結局、新型コロナでは陰性だったけど 何らかの細菌感染による敗血症で
多臓器不全に陥ったということだったけど
最初に父から電話があってから 実質2日ちょっとしか経ってない…
信じられなかった…
だって 先週旅行のお土産渡して、いろいろ話したばかり。
土曜に別れた時には まさかこんなことになるとは夢にも思ってなかった。
そりゃ、もうすぐ90歳だったから いつお迎えが来てもおかしくはないけど
せめてお母さんの7回忌までは頑張ってよね と
話したばっかりだよね、お父さん...
どうして、こんなことに...
まったく気持ちが追いつかないけど、でも時間はどんどん過ぎていく。
葬儀をしなければならなくて
あれこれ決めることがあって、親戚に連絡をして
母の時は父が取り仕切ってくれていたけど
それを今度は子どもの自分たちがしないとならない。
家族からはみ出し、実家に半引きこもり状態の弟と 役割分担しながら...
弟に 不満や恨みの感情も湧いてくるし
自分自身にも もっとこうできたのでは、ああすれば良かったのでは と
後悔の念もたくさん。
不仲の弟と感情が爆発してお互いに罵り合いをしたこともあった。
それでも 平日家にいる弟が喪主として事務的なことも進めてくれて
助かったことも多かった。
実家に行っても もう父の姿はなく
その現実を受け入れることができず 苦しかった。
それに今年の夏は とにかく暑くて、暑くて
何をするにも 心も身体も悲鳴をあげそうな状況。
つらかった、苦しかった、何より 悲しかった…
父の死後ずっと続いていた目まいも
不思議なことに四十九日法要が無事に済んだところで治まったから
相当 堪えていたんだろうな…
父は 私の中で人としての理想、 ”人としてこうあるべき人”だったから。
真面目で、知的で穏やかで、知的好奇心というか意識の高い人だった。
母の時よりも 父を失ったことの喪失感は大きい。
でも、葬儀の時に ご住職に
「これも寿命。遺された者は個人に感謝して生きれば良い。」と言われたから
悲しみは受けとめるけれど、そこに溺れることなく
私は父から受け継いだものを大切にしてこれからを生きていこう
そう思えるようになった。
お父さん、いままで本当にありがとう。
天国でお母さんが待っているね、やっと再会できて良かったね。
もう痛みも苦しみも寂しさもないあの世で
どうか安らかにー。
そして、どうか私達家族の行く末を見守ってください。
お父さん...
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