この記事を書くきっかけになったのは、メンバーとして関わっている区の子育てマップ制作で「子どもの発達に悩んだら」というタイトルのコラムを書かせてもらったんだけど、校正の段階で「障害」を「障がい」に置き換えるか?という話になったこと。
確かに「障害」という言葉を「障がい」とか「障碍」に置き換えている文章をよく目にする。
それはそれで構わないけど、私自身はそれに”あえてこだわりたくない”という考えを持っている。
「障害者」という言葉は、「身体(脳を含めて)や精神のどこかに何らかの”障害”=機能しないところ を持っている人」という意味だと認識しているから。
でも世間一般には 障害があるというだけで不当に差別されて、まるでその本人が”障害”であるかのように言われることがあるというのも事実で、それを嫌って(あるいは語感とか文字の意味合いから)「障害者」という言葉を避けたり言い替えをするんだということも理解はできる。
だから当事者(及び家族とか直接的な関係者含めて)がそうするのは構わないと思うんだけど、当事者以外の人がするのは、その気遣い(なのか?)が言葉は悪いけどかえって疎ましく感じたりもして...。別に逆差別だとまでは言わないけど。
イヤなのはことばに込められる意味とかニュアンスであって、その言葉自体には別に何も問題ないのに と思う。
でもそういう意味やニュアンスも含めて言葉は存在するのかもしれないけど。
うーん、難しいなぁ。
差別を避けるために言葉を置き換えても、差別する心がある限り いたちごっこなんじゃないかな?
その昔、精神薄弱を”セーハク”と言って差別的に使われて「知的障害」に言い換えるようになったけど、今だって”チテキ”と言って差別的に用いられることはよくある話だし。
最近は日本でも健常者のことを「メインストリーム(主流)」、障害者のことを「チャレンジド」と呼ぶようになって、その言葉をよく目にするようになった気がする。
最初”言いにくいのに何でチャレンジド?”と思ったけど、challenger(挑戦者)ではなくchallenged(挑戦を受ける者)というところがミソ?らしい。
つまり”(神から)挑戦すべきことを与えられた人”という意味。このヘンいかにもアメリカ的。まぁ、確かにポジティブ思考ではあるけど。
でも私個人的には”メインストリーム”も”チャレンジド”も正直あんまりいいとは思わないなぁ。
別に理屈じゃなく、単に”健常者=主流”っていうことに驕りみたいなにおいを感じて抵抗があるだけだけど。(考えすぎか?)
”チャレンジド”も、彼らがその挑戦を望んでいるかどうかもわからないのに無条件に挑戦させられてしまう(?)ような、その一方的なカンジがちょっとね...。
前にも書いたけど、問題は言葉そのものではなくてそこに込められる意味とかニュアンス、つまりは気持ちの問題なのでは と思う。
だからこそ 言葉に込められた意味とかニュアンスに引っかかると、その言葉自体が受け入れ難くもなってしまうんだけど。
あれ? 堂々めぐり?
段々何を書いてるのかわからなくなりつつ、でもまだ書きたいことはあるので、この続きは改めて別の記事に。
メールはこちらまで → bambi-suzu@mail.goo.ne.jp
確かに「障害」という言葉を「障がい」とか「障碍」に置き換えている文章をよく目にする。
それはそれで構わないけど、私自身はそれに”あえてこだわりたくない”という考えを持っている。
「障害者」という言葉は、「身体(脳を含めて)や精神のどこかに何らかの”障害”=機能しないところ を持っている人」という意味だと認識しているから。
でも世間一般には 障害があるというだけで不当に差別されて、まるでその本人が”障害”であるかのように言われることがあるというのも事実で、それを嫌って(あるいは語感とか文字の意味合いから)「障害者」という言葉を避けたり言い替えをするんだということも理解はできる。
だから当事者(及び家族とか直接的な関係者含めて)がそうするのは構わないと思うんだけど、当事者以外の人がするのは、その気遣い(なのか?)が言葉は悪いけどかえって疎ましく感じたりもして...。別に逆差別だとまでは言わないけど。
イヤなのはことばに込められる意味とかニュアンスであって、その言葉自体には別に何も問題ないのに と思う。
でもそういう意味やニュアンスも含めて言葉は存在するのかもしれないけど。
うーん、難しいなぁ。
差別を避けるために言葉を置き換えても、差別する心がある限り いたちごっこなんじゃないかな?
その昔、精神薄弱を”セーハク”と言って差別的に使われて「知的障害」に言い換えるようになったけど、今だって”チテキ”と言って差別的に用いられることはよくある話だし。
最近は日本でも健常者のことを「メインストリーム(主流)」、障害者のことを「チャレンジド」と呼ぶようになって、その言葉をよく目にするようになった気がする。
最初”言いにくいのに何でチャレンジド?”と思ったけど、challenger(挑戦者)ではなくchallenged(挑戦を受ける者)というところがミソ?らしい。
つまり”(神から)挑戦すべきことを与えられた人”という意味。このヘンいかにもアメリカ的。まぁ、確かにポジティブ思考ではあるけど。
でも私個人的には”メインストリーム”も”チャレンジド”も正直あんまりいいとは思わないなぁ。
別に理屈じゃなく、単に”健常者=主流”っていうことに驕りみたいなにおいを感じて抵抗があるだけだけど。(考えすぎか?)
”チャレンジド”も、彼らがその挑戦を望んでいるかどうかもわからないのに無条件に挑戦させられてしまう(?)ような、その一方的なカンジがちょっとね...。
前にも書いたけど、問題は言葉そのものではなくてそこに込められる意味とかニュアンス、つまりは気持ちの問題なのでは と思う。
だからこそ 言葉に込められた意味とかニュアンスに引っかかると、その言葉自体が受け入れ難くもなってしまうんだけど。
あれ? 堂々めぐり?
段々何を書いてるのかわからなくなりつつ、でもまだ書きたいことはあるので、この続きは改めて別の記事に。
メールはこちらまで → bambi-suzu@mail.goo.ne.jp