私が大学に在職中に、セクハラ問題が教授会で報告された。ペーパーが回ってきて聴取されたセクハラ過程が詳細に事務屋によって記述されてあったが、なんかこれって、事務屋が執筆を楽しんでませんか?、と私は受け流していた。
それに他学部のことだし他山の石としていたら、次第に対応策の案内が回り、セクハラ、パワハラと議題はエスカレートして、つまり他人が不快だと思われる発言や行為をしてはいけませんというおふれまででてきた。私はえらく閉塞的な社会になってきたなと思っていた。
だから例えば私のゼミ生が高知県出身ですといったら「土佐のハチキンだって!」、なんていっちゃアカンわけだ。
幸い私のゼミには、大いにたくましく、大いに図々しく、おおらかに、したたかで、たくましい学生達ばかりだったのは幸いだった。おかげでこちらは振り回されたが・・・。
興味深いプログ記事(注)があった。それを要約すると・・・
いまの職場では、個人のプライバシーは語らないそうだ。例えば今度休暇を取るにしても、どこへゆくんだいなんて聞くのは個人のプライバシーに関わることになる。旅行後にお土産もらって、ああ海外にゆかはったとなるようだ。それに「ちゃん」づけもアカン、まして飲み会で下ネタで盛り上がろうものなら精神的苦痛を与えたとして裁判に訴えられる・・・・・。
もちろんこの筆者は、不器用な生き方、すべてを訴訟に頼る嘆きかわしき時代に後退してしまったと評している。
他方で三浦しおんの小説「神去りなあなあ村」(映画ではWOOD JOB)を読むと、山村集落を舞台として、木製の巨大な男根神体を女達がなでて安産を祈願するという性器信仰の祭が登場する。そんなおおらかなコミュニティが小説には描かれている。
そうした閉塞的な現代の仕事場と、あけすけでおおらかなコミュニティとを両極とし、これを結ぶ成分軸をなんと呼ぼうかというのは文科系の仕事なので私は探らないことにして、三浦しおんの小説が現代に登場してきた理由もわかりそうに思われる。
どちらにしろ不器用なコミュニケーションがあたりまえのようにばっこし、つまらない仕事場になってきた事は確かだ。
私の都市開発の仕事の経験では、そんな形式的なヒトって難問に突き当たり多少は努力して無理とわかればポイッと仕事を放り出す無責任さがあったな。もちろんそこでその人の成長は止まってしまうわけだが、その放り出した仕事を無理無理と誰かが引き継いで行くなんてことは考えもしないんだな。だから、私はそんな能力がない人達とは大きな仕事をしないことを教訓としている。
都市開発の仕事をしていてこんな経験もあった。ある時著名な電機メーカーから「企画が得意です」といって入社してきた社員がいた。その著名な企業の中では企画が得意だと、もてはやされたんだろうと私は推測した。そこで簡単な課題を1つあげたら1週間で首になった。あんたが考えている著名企業の企画なんて箸にも棒にもひっかからないのよ、世の中を甘く見ていましたね。そんなプロの企画者を目指すんです、といいつつ即やめた人間を私は沢山みてきた。つまりみんな意欲はあっても能力がなかった、勉強不足でしたね。
本当は、そこからが出発点であり、回りからポロクソにいわれ、クビだとおどされ、そんなパワハラ発言にもめげず、目一杯勉強し、難問に悩み、斬新なアイデアを乾いた雑巾を絞り出すように考え、上司を追い越そうという努力と頑張りがあって精神的に大いに鍛えられ、そこを通過してみんなプロになっているわけ。
今は、そんな努力をしない自称プロが安易に大量発生し、アマチュアに毛が生えた程度のワーカーが随分増えたと思われる。それをゆるす、あまーーい社会があるのだろう。そんなのが自分で簡単にプロですと称して恥ずかしくないのかなぁー。
(注)gooブログ:時事評論、私を"さとちゃん"と呼んでいいよ!、原左都子エッセイ集2018年9月24日 。https://blog.goo.ne.jp/4456hs/e/875a6618084d1141fd5d78c7fe7dd072
沖縄県渡嘉敷島カメパラダイス
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