学力テスト

文科省が小中学生の基礎学力を上げるために、来年から対象学年全員に学力テストを実施するとのことで、新聞の社説や読者の投稿など部分的だが賑わっている。
競争による弊害などが述べられるものが多い。中には子供の勉強や学校離れを心配するものもあった。現場的には確かめ済みの意味もあるから当然だろう。
私はもっと誰でもわかる基本的なところでの矛盾を指摘したい。
以前、ブログでも書いたが、今日企業の採用試験で重視しているのは以前のような学歴や学力ではなく、コミュニケーション力や、創造的な発想力、などの人格的な人間力を求めるるようになって来ているという統計的な事実がある。これが企業が競争に勝つために最も必要とする人材だという。経済団体の担当者はこの力は小学校からつけてほしいとのコメントもそえられていた。私はもっともなことなので、早速行政的努力のなされることを期待したいとその日のブログで書いた。案の定、学力テストの実施計画に見られるように教育行政の壁を越えると全く変わってしまう。誰が考えても、学力テストで前述の企業や社会が求める人間力をもった人材を育てる策とは考えないのではないか。もっと人間の土台をしっかり育ててほしいという要請が、教育界に入るとこのようにがらっと変わってしまうのです。
一斉学力テストがすべて間違いだとは思いません。しかしそれが教育的にプラスの意味を持つには今日の児童生徒の実態とテストの方法を慎重に検討する必要があります。その面から言うと、あまりに乱暴すぎます。テストでハッパをかけ競わせるのが有効なのはごく限られた場面だけです。全国的に実施して有効なのはおそらく学校制度の整わなかった、明治のはじめまでではないかとさえ思います。「官から民へ」「地方分権」これとも不整合。
どっちにしても時代錯誤がなはだしく、このような教育は人文科学の科学から程遠い。
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新しい人

政治も経済も教育も日常の生活も人間の全ての営みや所作は広い意味で文化といえる。1元的ではない意味とか価値というものさしで見ることができる。
現在の行き詰った社会に作家の大江健三郎さんは「新しい人」を期待している。大江さんとは違うかもしれないが、私も「新しい人」に期待している。
それは既存の主義主張や政党政派・お金や権威に全く捉われないで、実際に人間の幸福に意味と価値を見出そうとする人。(逆に言えば、右翼でも左翼でもどんな宗教団体に属していてもいいからそれに捉われないで考え行動できる人)そのような本来的な意味で「新しい(文化的)な人」にめぐり合えたらなーと思う。そして自分もちょっぴりでもそっちのほうを向いて歩くよう心がけたい。
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