粉飾・偽装社会

おとといは姉歯建築士等、偽装建築集団が逮捕され、昨日は粉飾決算の堀江氏が3億円のお金を積んで保釈された.今日の朝刊は、厚生省の外郭団体(会長 奥田経団連会長)が帳簿などの偽装隠匿で、原稿料を装い厚労省職員等に金銭提供との大見出し。
テレビをつけると朝からニュースもスポーツもタレントを中心にショウアップされ報道されている。マスメデアの粉飾偽装だ。
先日、このブログで「学校や学級の偽装建築」のことを書いた。
世の中、公も民もなく粉飾偽装があふれているようだ。
建築は言うまでもなく、どの分野にも管理監督する所轄の官庁があるはずだが
責任をとったというのをほとんど聞いたことがない。会社なら経営の責任者が責任を取るが通例だ。上意下達の役人も建前は民間以上に責任体制はあるのだが、過去の例を見るとほとんど責任らしい責任は取ってはいない。学校で言えば学校長。議員さんも公務員云々の話をよく聞くが、自分自身が特別公務員で、公務員を監督する立場にあることをお忘れになってはいないでしょうか。なぜなら法律をつくる国権の最高機関の公務員なのですから、最高の責任者ではないでしょうか。今回の1連の事件の監督責任者いないのでしょうか。固定資産税は誰が決め誰が取るのでしょうか。
それはそれとして、スポーツ番組でやたらタレントを使って絶叫するのはやめてほしい.ショウアップして、盛り上げ、視聴率を上げるためなのだろうけど
私は迷惑だ。子供の頃からスポーツは大好きだったし、実際のスポーツ観戦も趣味だしラジオやテレビの実況も
よく見てきた。しかし最近の報道はやかましくスポーツの面白さが消し飛ばされてしまう。せいぜいスポーツや選手の味を殺さない程度にしてほしい。音楽でも何でも文化には、それ固有のの雰囲気と味があるというのに。粉飾偽装され安っぽく合成剤で着色された報道番組が家庭の茶の間まで入ってくるのでうんざりすることもある。勿論全部が全部ではない。報道に目を洗われたり、涙することもある。しかし心配な大きな流れは指摘しておかなくてはならない。いつまで粉飾偽装の社会では人類は生き延びれないだろうし、うんざりする人も出てくるだろうから新しい人や新しい展開を待つことにしよう。
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親の社会的責任

子供たちの困った問題が生ずると、親の躾等、親の責任を問うことがよくある。
確かに子供を育てる家庭や親に責任はある。
ここで考えてみたいのは、どこまで親に責任があるか。親は子供の全てに責任を感じるものだが、社会的な責任まで全てあるのか。
先日、東京都の議会報告を見ると石原知事は、保守系議員のニート対策についての質問に対して
「豊穣な社会の中での甘えの露呈。支援を行うが、やはり当人、保護者の自覚の問題。」と答えている。(知事は戸塚ヨットスクールの顧問でもあるから当然か)
人気抜群だから多くの都民もそう考えているのだろう。
教育、医療、心理関係の現場でそう考える人は滅多にいないと思う。
ニートや引きこもり、不登校、抑うつ状態などは、学校や社会への不適応という共通点がある。不適応は本人の自覚の問題か、器の問題か,簡単には言えない。
世の中には困った環境や集団もあるわけで、場合によっては不適応は健康な印でもある。
まして今日のように、父親が単身赴任したり、残業で帰りが遅かったり子供も塾などで、母親が晩御飯を一緒にしたり家族団らんをしようとしても、かなり難しい現実。父親だけではない。母親だって同じような立場だろうし、実際はそれ以上に過酷ではないだろうか。多くの父親だって、好き好んで帰りが遅いのではない。
仕事という社会的責任があるからだ。親の責任を優先させられる人がどれだけいるだろうか。社会的責任を優先させないとほとんどの人は食べていけない。これが現実だ。
こういう中で、学校に行けなくなった責任まで親は持つことが可能であり正しいことだろうか。現実の子供を教育するのが学校だし、管理も運営も学校がやっているではないか。器を作っているのは学校ではないか。このような状況にあって、学校に行けないのまで親の責任というのは誰かが身勝手過ぎないだろうか。お店にお客さんこないのはお客さんのせいといっているのに等しい
かつて英国の鉄のサッチャーは不登校を出した保護者に罰金を科したと聞いているし、神奈川県では、夜、徘徊している青少年の責任は親にあると条例化したことを新聞で読んだ。言葉だけ聴くと尤もだと思うのだが、現実はどうか今1度思い出してみてはどうだろうか。

補足 これを書き終わって ちょとがテレビをひねると、文部大臣が今国会に教育基本法の改正を上程するとの談話を発表していた。その中で、上記の家庭教育についてもはっきりさせるとのこと。付け加えて今日的なニートについても「職業につく態度の育成」も項目にこめたとのこと。
これも、チャンネルをくるくるやるテンポで見ていると、尤もだありがたいと思うはずっだ。ところが現実に直面している人は、「もうやめてくれ」と言いたい所ではないか。私流にその現実を感覚的に言えば、植物にたとえるなら、水のやりすぎによる「根腐れ」肥料のやりすぎによる,「肥やしやけ」が原因なのになぜ追加するのかといいたい。
この表現も誤解されそうですが、親の甘やかしとは全く異なります。簡単に言えば
人間が本来持っている自然の性質を、よってたかって奪ったからにほかならないのです。所謂お勉強や躾は社会に出て行くのに大切なものです。だかっらといって、この人為的なものを無制限にやっていいものではないのです。人間はどんな人間も基本的に生物であり動物なのです。周りの自然と己の自然を融合した土台をないがしろにしては、どんな人格も構築できないだろうと思います。人を恋しがるのも、労働し自己実現を図ろうとするのも、他人に与えられたり育てられたりするものではないと思います。回りがそれを邪魔しなければいいのです。法律を変えたり
お金をかけなくてもいいから、天から与えられた性質を奪ったり壊したりしないよう運営し気をつければいいのです。本人や現場の話に耳を傾けてほしい。
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