世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
だって国会だもン
上のタイトルは妻の作。昨日教育3法案が長時間論議される様子を妻とテレビで見ていた。私が「こんなの小学校の学級会でも許されない」と呆れて嘆くと妻は『だって国会だもン」とすんなり言葉が飛び出した。私はなるほどと関心してしまった。
与野党とも発言中に野次やら私語が絶えない。最もあほらしかったのは、質問者も答弁する人も、全くと言っていいほど『教育』が分っていないと思った。
教師を長年をやってくると、教育についての立場や、見解の違いをはじめ、基本的な知識や技能を持ち合わせない人に出会うのは日常的だったから少しも驚かない。昨日の国会の論議は質問する議員も答弁する議員も、どうみても教育に関する基本的な知見をも持っていないように見えた。それは言葉と言うより、ものの言い方や話すときの間のとり方、特にその表情の変化の仕方が物語っていた。昨日の議論は言葉のやり取りで如何に相手を負かし自分をアピールするかが中心だった。当然質問する議員も、それを聞いてる議員も表情は中味に対する表情の反応ではなくあいてをどう打ち負かすかの表情の変化だった。そんなだから、場にそぐわない不謹慎な笑いや笑みも見られたが本人達は大真面目なのかもしれない。政治家やリーダーに必要なのは何でも知っていると言うことではなく、むしろ自分の知らないことの多いことを知るべきで、想像力を働かせながら、思惟しものを言ってほしい。昨日の国会はとてもじゃないが『教育』の論議の雰囲気ではない。世間知らずで、いいかっこうしのお坊ちゃま同士の啖呵の切りあいのようだった。精通しているがごとく難しい言葉を並べ立てるので、現実との間にギャップが出来、意図とは逆に真実性と誠実性のなさが際立てしまっていた。
今朝の朝日新聞は社説で法案に対し疑問らしいことを書いていたが、深みもないし,社説のタイミングは最悪。歴史的評価に対するアリバイ工作の確信犯の印象だった。今頃言っても後の祭りであることは分っているはず。
教育に関してはどの政党にも投票する気にはならない。
確かな野党を標榜する共産党も「少人数学級」主張しているが、ある意味で政府の言っていることの裏返しで、今日の現実や教育問題、その原因や根の掘り方は上面で政府同様、事態を把握していない。問題の根の深さを考えると、似たり寄ったりではないか。
事態を把握するのは難しいことはない。子供の心と成長に目を向けるだけでいい。向けていればその時、見解が異なっても、気持ちだけは伝わってくるものだ。そして時間はかかっても事態は必ず良くなっていく。これまでの事態の経過を見れば誰でも分るように、良くなっていないどころか悪くなっているではないか。
自分たちの都合で政策を作り、自分の都合でそれに反対する。
どの組織も教育機関や組織と何らかの形で関係しているはず。何で現場の状況を検証しようとしないのだろうか。日教組を抱えてる民主党が教員の免許更新の研修を政府の3倍100時間を要求しているのは、もしこれが両組織の合意なら民主党や日教組の馬鹿さかげんを超えた今日の教育の事態の深刻さを表わしている。
各政党には現場の情報収集の仕方を聞きたい。子供を読み解く力があれば、子供に直接聞くのがいいが、常識的には教育や子供の全体的な状況や関係は現場の先生方が一番知っているだろう。勿論教師にも色々な人がいるから、検証作業はどうしても必要ではある。しかしこれは、教育政策を作ったり、法案を作るとき、最低限の基本的な手続きだろう。組合が嫌いだったら、教職員の代表でもいい。どんな形ででもいいから政策作りの手順の過程にこの【子供がどうなっているか】の情報収集の作業と検証が入っていなくてはならないのではないか。個人の著書で、自説を書くのとは話は違う。
くどいようだけどあんな馬鹿げた論議をしているから言っておくが、学校の管理職・教委・専門家と言われる大学教授・医師や心理学者も、多くの場合殆ど子供の代弁者にはなれない。それは直接子供と関わっていないのだから子供の実際のところが分るはずがない。養老氏流に言えば、彼らにも「馬鹿の壁」があり、その内側からしか話せないはずである。それを見えなくしているのは、社会的権威だけである。政府や行政が自分に都合のいい権威をかさに着た専門家を集めて政策を作るやり方自身が官僚支配を批判する政府の行政改革の対象のはずではなかったのか。それを自ら今やっている。言ってることとやってることが全く違う。
今後も、根拠のない話がテレビや赤じゅうたん等の上で教育のみならずいろな分野でまことしやかに堂々と、展開されるだろう。そして益々エスカレートするに違いない。何故なら、それらの声はメディアによって増幅され、その言葉が大手を振るい、その情報の中に閉じ込められそれそれ以外の情報を持てない多くの人はそれがおかしいと気付き、言葉にするのはなお難しいし。公然とそういう流れを作るのだから。
実際、それに疑問を持つ人はまれで、結果として今日の事態になり、政策や流された情報にもろ手を挙げ賛意を示した大衆は、その被害を(享受?) することになる。
因果関係の情報がない上、本気で情報が流布されるから『流された情報によって『見える・思わされる』と『主体が見ている・思う』の認識上のとり違いが生じ、その矛盾に気が付かない。(取り違いはマジックと似ている。)
そして今日の事態に至っている。
飲み屋で年配の人と話すと、『今の子供達はかわいそう。貧しかったけれど昔の方がよかった。』これで殆ど意気投合する。
選挙のたびにどの候補者もいいことをいい実績を誇示する。だからとっくに世の中は良くなり幸せになっていいはずである。少なくても先に希望を持ててもいいはずである。しかも(ゆがんだ情報化社会ではあるが)形式的には我々、市民・国民が自ら選択したことになる。もの言う機会も与えられず、選挙権もない子供達は、たまったものではない。
ゆがんだ社会のゆがんだ行動は本人が自覚などするはずはないし、ごく普通で一般的に見えるものだ。お互いだから気が付かない。(勿論私自身例外であるはずはなく、目くそ鼻くそであることは当然のこと。)
人々は本当に日に日に子供達が幸せになっていると思っているのだろうか。子供達の先に明るいものを感じているのだろうか。
目の前の子供達を見ればいい。
『人間だから(相田みつお)』で済むようなスマナイような気がする。