必要だったこと

 

             大方の現実社会は 自然を壊し犠牲にして経済や教育などをしているが 経済だって子どもの教育だって自然の力を借りれば良いのにと思う。

            少なくても教育では 自然の力を借りて失敗した記憶は無いが、それが出来ずに失敗した事は山ほどあった。

              子どもを取り巻く環境や情報がどうなっているかの把握と同等に、何が自然か の究明が難しかった。

           顕微鏡も望遠鏡も 両方が必要だったんだ。 

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求めているのは

 

    地球や 世界を感じながら 目の前の試みに心を傾けられる。そのバランスのとれた一体感が 欲しいのかもしれない。

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悪い見本は 誰?

 

   ( 人が幸せを願うと言うなら)

 

    世界の全ての分野の全ての人が 急いで向自然を取り戻す人間活動へと向かうことが必要だろう。

    若い人が 社会に適応しなければ生きて行けないと考えるのは順当だろうが、状況が状況だから 将来を考えて、適応や順応を越えた積極的な活動が求められているのでゃないか。

    スマホやゲームにかじりつきたくなる情報下にあって、自然を求めるのは難しいとは思うが、猶予した分だけ犠牲が大きくなる。

     私たち老人や大人は 悪い見本を見せていないだろうか。

       

     

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 はーるよこい はーやくこい

 

   一体、 人間は 地球や子供の中にある自然を壊しどうしようと言うんだろう?

   自殺行為をしているようだが、もっと大きく傷つかないと改められないんだろうな。

    この72年間に戦争を2回経験した。 1度目は武力戦争、2度目は現在進行中の経済戦争。

     1度目の敗戦の日の青空と周囲の大人の底が抜けたよう明るさが今でも残っている。今の戦争も止めたら きっとあの時のように すっきりした気持ちになるんだろな。

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自然感覚を薄められたリーダー

 

      現在の教育のシステムでは教育によって専門分野の力はつける反面、自然や全体に対する感覚は薄らぐのは普通かもしれない。

    全体や自然感覚の薄められた人たちが各界のリーダーとなって地上の自然を壊してはいないだろうか。

     政治や経済界のリーダーだけでなく、マスコミへ登場する多くの人から自然の感覚を感じないのは偶然だけではないようだ。

      

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自然を真正面に据えて対峙する

 

     子どもの存在や実態そのものが自然そのものある事を本当に理解していただろうか?

    自分なりに(本来)を大事にしてきたつもりだったが、今振り返ると、もっとその事をしっかり中心に据えるべきだった思う。

    器用さの範囲を出ていない。 

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今にして思う

 

    動物の世界は(弱肉強食)だとよく言われるが、人間のとは 基本的に違うかもしれない。

     動物は自然を壊し 自らが生きられないようなまねはしない。

     人間に教育が必要だとしたら、その事を自覚できるようにすることだろう。

            人類は基本を学ばず、忘れていてはいないだろうか。

         基本を忘れては 平和も経済も教育も個人の幸せも ありっこ無い。

       自分の子供への関わりは 甘かったと(今にして)思う。

  

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  思い出した 一体感

 

     昼は近くの桜を見に行った。夕方は 妻の買い物に付き合いコンビニに行ってきた。

     年のせいだとは思うが山も店内も行き帰りも、周囲が自分の体の一部であるよな感覚にとらわれ、世界が自分も入った1枚の写真であるかのような気に思えた。

     思い返すと、小学校へ入学する以前の感覚がこんなだったような気がする。     とてもいい気分だった。

       多分、家の看板にしている【WELL BEE】(良い状態)は こんなんじゃないか。

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 「人間は動物である」

 

    社会であれ個人であれ芸術であれ教育であれ事の(良し悪し)は勝手に人間が決めるものではなく自然の理に敵うかどうかだろう。

  人間が受容された(良い状態を)心理学ではウェルビーンと言い感覚が外に外に開かれ自らが外界を受容できる状態を言い、東洋の禅の求めるところと一致する。

  良い状態かどうかは単に観念の問題ではなく、生理学的に検証可能な状態でもある。

  現代社会は自然の理から離れ教育に至るまで(良い状態)も放棄しているかのようだ。

   生物は良い状態では必ず探索行動を誘発する。逆に探索行動がその生物が本来的な状態にあるかどうかの目印にもなる。

   良い状態で探索行動をベースに探査・探求と社会的行動へと発展させられるかどうかが社会の在り方や教育の在り方を問うカギでだろう。

   今は可なり手前を歩いているが、忘れただけでもある。「『間は社会的動物である』 は2000年前に言われて言葉である。形容詞を抜いた主述関係は「人間は 動物である。」になる。

 

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   淀んだ空気から抜け出したい

 

      周辺国へのバッシングと国の主の意向に誘導する一方的な情報には 少々辟易している。

    私たちは (地球村)と言いたくなるような地上の小さな現実を 一方で感じながら、 マスコミの情報に耳を傾けなければ生きてはいけない。 

     これらの社会の仕組みや引き裂かれたような心は 自然からかけ離れ自ら招いたものかもしれない。

  社会も個人も急いで自然に向き合うことが 求められているのだから、自分だけでも外へ出て思いっきり良い空気を吸い、吐いてみるぞ!

  「メディア」とはシャーレなどで微生物を培養する時の培養液の事らしいが、そうだとすると私たちはマスメディア(大量培養液)の中で泳がされている微生物のようなものかもしれない。

   きれいな水の中で泳げると良いのだが…

   

    

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