世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
改めて「この道しかない」
「この道しかない。」は(雄叫びの声)と言うより、追い詰められた時に発する、(お手上げ)声ではないだろうか?
コンピューターが「これしかない」と答えたら 入力が変化していないか、コンピューターの能力を超えた時だろう。
自然の全体を把握できない人(類)が 自然を相手に「これしかない」「この道しかない」と考えるのは 諦めか思考停止を意味してないだろうか。
それが政治的発言だからなおさら マスコミや国民の思考停止を拡散し「政治的発言」では済まされず 問題解決を困難にする。
各界の(哲学をもった)学者や文化人から、(表現上の問題ではあっても)「ちょっと、待って」の声の上がらないのが不思議である。
しかし、「正常」かどうかが最も問われるのは 経済のことや偉い人ばかりばかりではなく 鏡に映さないと見えない 最も身近なこの自分。
世界を動かす巨大なホームレスマネー
この間、本屋でふと目にとまった本で
大前研一氏は金融市場に出回る投機資金の5000兆円を「ホームレスマネー」と名付けて世界の経済を解説していた。
これまで定数を知らずに経済の方程式を解いていたことをはじめて気が付いた。
世界の経済を「金融資本主義」とか「カジノ経済」と言われてもいるが、その規模の大きさには改めて驚いた。
なんと、アメリカの国家予算の10倍、GDPの3倍を超えるファンドなどの投機資金が世界経済を動かしていることになる。
カン違いが普通
何となく色んなことを知っているつもりになっているが、そこからマスコミによる情報を取り除くと 個人は どれだけの事を「知っていた」として残るだろう?
それは家族・隣近所・職場や学校等 ごく限られ、その日の天気から国の内外に起きる出来事のほとんどは マスコミの情報に拠っており、傘1本持つか持たないかの判断から選挙でどこに投票するか、漠然ではあっても国や世界の現状や将来の予想まで マスコミの情報に左右されている。
戦前の日本やナチス 原発の安全神話の例を持ち出すまでも無く、マスコミ情報の間違いは (後から見ると) 一般的で普通なこと。 事実は(今見たいのに) 後からしか分からないから悩ましい。
だから どんに偉そうな顔をした人も偉そうでない顔をした人も 間違った情報空間中でさ迷わざるを得ないし 勿論、カン違いしさ迷っている中心に この自分がいるのは確かなこと。
「五分の魂」の話も聞きたい
フランスで12人を殺したテロやソニーの関連会社が作った娯楽映画への脅迫に対し、「表現の自由を守れ」との声が一斉にマスコミで流されているが、どこかスッキリしない。
テロや脅迫が良いとは思わないが、射殺したり経済制裁をしてすむとも思えない。
このような抗争を伝えるマスコミ情報はいつも『被害者』の立場に立ち、もう一方の立場の取材による説明や談話が無く、
事件の背景や全体像が見えない。
学級には いつだって困ったことをする子供はいるものだが、 その子の話も聞かず解決したなんてのは 見たことも聞いたことも無い。
『一寸の虫にも五分の魂』と言う。 これは人類の普遍的な事実だろうから、それを無視する『自由』は私たちの願っている本来の自由と言えるだろうか?
(全体像が見えるには 歴史的な「自然に順じたグローバル化」が必要だから、時間はかかりそう。)
「国際社会」の正体は?
おもちゃ箱をひっくり返したような正体不明な「国際世論」と「国際社会」。
世界を主導するアメリカは 石油のパイプラインを通す法案を議会が通しても 大統領の裁量権で その実施を止めるらしい。
キューバとの国交回復、国際的な温暖化対策、イスラエル・イラン・シリアなど中東の紛争への関与 等 アメリカ国内世論でさえ 特定するのは難しい 。
世界の世論を連想させる「国際世論」や国際社会」は 尚の事、安易に使える言葉ではない。
正体不明なその言葉を為政者やマスコミは平気で都合の良いように使っている。
しかし、この正体不明な「国際世論」「国際社会」の名で 多くの国や国民は「国際貢献」する。
楽しみな 確かめ
「日本列島が小さくなっている。」 そんな話は 聞いたことが無い。
しかし、 聞いたことも無いような事実があるのは 世の習い。 極地の氷山が溶け出し 海外(ツバル・バングデッシュ・地中海のベニス)では 水位が上がっているとの
情報はあるのに 住んでいるこの島はどうなっているか が分からない。
【本当】は どうなっているのか 機会を見つけて地元の人に聞いてこよう。
心地良い町
おととい、築地の裏道をブラブラして来た 。
未だ木造の2階家が立ち並び、木賃宿や床屋なんかが 7~80年前の面影を残す。 梅ヶ丘同様、何でか、ホッとした心地良さを感じる。
根津の町も 近々見てこよう。
ところで、町の変りようは 流行り言葉のような(多様性)とは どんな関係なんだろう?
耽る楽しみ
ついに箱根マラソンの実況中継も 絶叫調! になっていた。
元旦は家族で海を見に行き、今日は商品販売(コマーシャル)で占められた感の新聞やテレビを飛ばし飛ばしで眺め、愛好してきた箱根マラソンに回したら、絶叫調。
焼きたてのホットケーキを食べたら 何をするべ?
大丈夫!大丈夫! 夢を追い想像に耽る楽しみ… が あるよ。
時代の壁
これだけ自然も社会も地球規模で変化し動く今、人は情報の媒体(メディア) 無しに生きるのは難しい。
中でも即時性をもったマスコミは社会的公器としての役割を持っている。
しかし、マスコミは 権力の管理のもとにある利益集団に他ならず 生きる道具である新聞やテレビの現実は 商品販売(コマーシャル)に乗っ取られたかのような情報空間を提供している。
人は そんな人的情報空間の中で生きているが、それを越える自然からの情報があるのが 救いになる。
最終的には いかなる権力も金力も自然を越えることは出来ず、自然の理に沿わざるを得ない。
ならば、人は道草を食うことなく自然の理に向かえば良いのだが、それを難しくしているのが【時代の壁】(養老孟司氏に言わせると『バカの壁』)なのか。
「こんな筈ではなかった」が普通の社会の動き
メディアの発達は 功罪半ばか。
情報を広く共有するには便利な道具だが、認識が情報によって現実から離れ現実への対応を難しくする側面も持っている。
この特徴が重なると、間違った情報によって社会は動く。
社会は「こんな筈ではなかった。」ことの方が多い。
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