コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

ぼくのエリ

2011-02-17 01:18:00 | レンタルDVD映画


ひどい邦題には慣れているので、ことさら文句を言う気力はとうに失っていると思っていたのだが、「ぼくのエリ 200歳の少女」というタイトルは、あまりにひどすぎる。

ぼくのエリ 200歳の少女 - goo 映画">

このタイトルを付けた御仁は、この映画を観ていないか、観たとしても何の感興も受けなかったに違いない。もちろん、たまたま映画を売っているだけで、映画が好きでなくてもかまわない。ただのビジネスであってもよいのだが、この映画の鑑賞にこれほどの妨害は、いくらなんでも、いくらなんでもだろう。

このタイトルを付けた御仁とそれを容認したスタッフに、言いたい。 「ぼくのエリ 200歳の少女」というタイトルなら、誰でも、「ぼくの200歳の少女エリ」と読む。映画はエリをそのように物語っていたか? 断じて、物語っていない! タイトルが内容を表さないというレベルではなく、タイトルが周到な伏線を台無しにして、オスカーとエリの危うく切ない「恐恋」を平板な「初恋」に薄め、はっきりと映画を裏切っている。

原題は、LET THE RIGHT ONE IN
原作小説は「モールス」
もちろん、原作云々という言い訳は聞けないな。

ついでに、公式サイトやgoo 映画などであらすじを書いてしまっているのはとても残念だ。私が広報宣伝スタッフなら、予告編を含め、提供情報は「幼い恋の物語」だけに止める。各国映画祭の受賞歴は飾っても、その絶賛内容までは紹介しない。この映画に関しては、観客に予備知識は不要だろうと思うからだ。たいていの観客にとって、この映画のモチーフについては、じゅうぶんに予備知識があるはずだからだ。

これほど美しく哀しい子どもの残酷な物語は、あの古い古い「禁じられた遊び」以来だった。「禁じられた遊び」と同様に、いずれ名画の列に並ぶことだろう。スウェーデン映画。原作は未読なので、映画との異同はわからないが、やおいマンガや小説を思い出す場面が散見できる。招かれずに入室したエリが固まって血を流す場面など、いかにもやおいにありそうな「ギャグ」だった。それはともかく、これがデビュー作という、主演の二人が素晴らしく美しい。

(敬称略)

マイファニーバレンタイン

2011-02-16 02:02:00 | 音楽


バレンタイデイといえば、この「マイファニー・バレンタイン」が思い出されるわけですが、アニタ・オディより、サラ・ボーンより、チャカ・カーンなど問題にならぬ弘田三枝子の歌唱です。

昔の有線放送では、チェット・ベイカーマイルス・デイビスの演奏がよく流れたものですが、チェット・ベイカーのボーカルは自殺しそうに暗いし、マイルス・デイビスのトランペットも孤独な心象画を描くようです。

だもんで。チョコレートをあげたりもらったり、告白したりされたり、みなそれぞれロマンチックで楽しそうなバレンタイデイを過ごしているというのに、俺(あたし)ときたら寂しく独り、届かぬ想いに涙するなんて、ほんと笑っちゃうぜ(わ)、そういう歌だと思ってきましたが、全然まったく違う歌でした。

My Funny Valentine

My funny valentine,Sweet comic valentine
You make me smile with my heart

Your looks are laughable,Unphotographable
Yet you’re my favourite work of art

Is your figure less than greek?
Is your mouth a little weak?
When you open it to speak, Are you smart?

But don’t change your hair for me
Not if you care for me

Stay,little valentine, stay!

Each day is Valentine’s Day.

My Funny Valentine


コタツ訳詞

変てこで可笑しいあたしのヴァレンタイン
あなたは心からあたしを笑わせてくれる

あなたの容姿って笑っちゃう
写真向きじゃないけど
あたしお気に入りの芸術作品よ

ギリシャ彫刻にはほど遠い貧弱な身体だし
しまりのない口で話すから
ときどきバカなのかなと思っちゃう

でも、その髪の毛一本だって変えなくていいの
あたしを愛しているなら、ヴァレンタイン
ずっとそのままでいて、ヴァレンタイン

あたしの毎日は、ヴァレンタインの日なの

つまり、女性から男性へチョコをプレゼントして好意を示す「ヴァレンタイン・デイ」の歌ではなくて、ヴァレンタインという名前の男の子に恋してる女の子の歌でした。

貧相な身体にいつも口が半開きの変な顔だけれども、いままで交際してきたマッチョやハンサムより、あたしを理解してくれるし、いちばん愛してくれる。あたしもあなたが大好きよ。という、ちっとも暗くも寂しくもない、その反対の歌でした。

なのに、孤影を濃く歌われるのは、この女の子はヴァレンタインへの思いにいま気づいたばかり、まだその心を伝えていないからです。恋をすると、失うのではないかと人は不安になり、逢えないときにはよけいに寂しくなります。

なるほど、やっぱり、「ヴァレンタイン・デイ」の歌でもあるな。

(敬称略)

リバタリアン宣言

2011-02-12 23:24:00 | ノンジャンル


「国がそこまで口出しするなよ」
「そんなの個人の自由に任せればいいの」
 一日に3回以上、そう考えるあなたは、
 リバタリアンの素質、十分である。
 日米の勝ち組エリートの多くが、
 実は密かに支持する「リバタリアニズム」。
 その実像を、気鋭の学究が懇切丁寧に解説!


表紙裏にこう内容が説明されている。
「日米の勝ち組エリートの多くが、実は密かに支持する」ってのに、腹立ちませんか? じゃ、当然、著者は勝ち組なんだろうなと著者紹介を読む。

経済学者。1966年富山県生まれ。東京大学法学部卒業。
カリフォルニア大学サン・ディエゴ校PhD(Economics)取得。
名古屋商科大学商学部専任講師をへて、98年から岐阜聖徳
学園大学経済情報学部助教授。著書に『現代のマクロ経済
学』、共訳に『人種・進化・行動』(l・フィリップ・ラシ
ュトン著)。


なんだい、富山の田舎者じゃないか。東京大学法学部卒業かあ、勝ち組だな。カリフォルニア大学サン・ディエゴ校? よくわからんな。名古屋商科大学、岐阜聖徳学園大学、これはFランだな。勝ち負けをいうなら、微妙じゃないかな。

『リバタリアン宣言』(蔵 研也 朝日新書 2007)

今は亡きゴマブックスや今もあるのかワニブックスみたいな、「勝ち組エリートが密かに支持する」といったエグイ煽りをしてみせ、「朝日らしくないでしょ」と物欲しげなところが、いかにも昨今落ち目の朝日らしい。ならばいっそ、『勝ち組宣言』とでもすればいいものを、腰が引けてからに。

腹立つ本ですよ。嫌な奴ですよ。この本書いている蔵っての。アメリカの保守思想のひとつである「リバタリアニズム」を探求して20年という触れ込みだが、大学時代から友人たちと話していて、いつも不思議に思っていたそうだ。

「なぜ他者に加害することのない麻薬などをとりまるのか?」
「なぜ高校生などの性的な交渉の意味が理解できる個人との買売春を規制するのか?」


嫌な東大生だねえ。取り締まり規制するに決まっているじゃないか! そんなこともわからないから、東大生ってのは、と舌打ちされるんだよ。

大学の教員でありながら、教育は日本語と英語と数学だけでよい、ともいっている。歴史や理科は要らないって。

最近の格差社会の拡大については、格差のどこが悪い、と開き直っている。

シッコ」という映画で、マイケルムーア監督が民間保険会社のおかげで、どれほどアメリカの医療が壊滅的な打撃を受けているか、完膚無きまで暴露したのに、そのアメリカの医療制度を真似しろというのだ。

腹立つでしょ。アメリカかぶれがエリート風吹かしやがって、ムチャクチャいってからにと。

でもね、この本読んで、サンデル先生のコミュニタリアズムとか、ジョン・ロールズの正義論とか、なんとなくわかったような気がした。彼らは、人々の才能や努力も不公平のひとつに数え上げていたが、「リバタリアニズム」では、人々が自らの努力と才能で得たものを自己実現したと認める。「リバタリアニズム」への反論のようだ。

また、リベラリズムはどうしていつも、「暴虐の雲光を覆い、敵の嵐は荒れ狂う~」(ワルシャワ労働歌)になるのか。抑圧的に働き、ときに好戦的になるのか。この本によって、合点がいったところがある。リベラリズムとは、ファシズムに対抗して出てきたものだと思ってきた。しかしどうも、リベラリズムの対抗軸は、「リバタリアニズム」なのかなと思えてきた。そして、「リバタリアニズム」の対抗軸は、リベラリズムのファシズムの根ではないかと。

ザッと通読しただけなので、かなり迂闊なことをいっているかもしれないが、自由とか、民主主義とか、国家とか、そんなことを考えようとしたとき、「リバタリアニズム」は避けて通れないようです。思想とか迂遠なことは苦手だなという短気な人でも、現代アメリカ社会を理解するには必ず知るべき考えかたらしい。何せ、1989年にアメリカの大手出版社ランダム・ハウスが、20世紀の小説ベスト100を読者投票を募ったところ、「リバタリアニズム」の代表的な小説家アイン・ランドの作品が、第1、2、7、8位に入ったというのですから。

なぜ、アメリカには、国家による国民皆保険制度に強硬に反対する勢力がいるのか。なぜ、ビル・ゲイツは何千億円も慈善団体に寄付するのか。民主党と共和党の違いとは? サラ・ペイリン人気とティー・パーティとは何か。もちろん、小泉政権の規制緩和政策や郵政選挙など、日本のトピックも「リバタリアニズム」の視点からマッピングされ、その影響がわかります。ただし、「20年来、リバタリアニズムを探求」として研究者の立場をとらない著者は、「リバタリアニズム」の究極モデルについては、違和感や留保を置きながら紹介しているところが、率直で好感が持てます。

「リバタリアニズム」は、国家の介入を最小限にしようとする、その思想の本義からして、多数派工作にはなじまない。一国の政権をとることはけっしてない。その意味では、地球上でもっとも穏健な思想かもしれない。そんなことを、下の「ノラン・チャート」を眺めながら考えています。


コタツ注:勝ち組云々は、著者の文章ではなく、たぶん編集者によるものです。人生に勝ち負けなし、というのがリバタリアンの矜持でしょう。リバタリアンからオバタリアンを連想したあなた、私と同じです。

(敬称略)

3連休はこれ!

2011-02-09 14:17:00 | レンタルDVD映画


一週間のうちに2度も、「一家団欒にこの1本」映画をお勧めできるのは、まことに欣快に堪えない。

「フェアウェル さらば、哀しみのスパイ L'Affaire Farewell」 (2009)

邦題は例によって何だが、観終わった家族から、頼みもしないのに、お父さんにお茶の一杯も出てくればやはり欣快に堪えないし、あるいは息子が侮蔑の視線を投げながら舌打ちして席を立ったならば同情に堪えない、ソ連のお父さんの映画です。

いずれにしろ、日本のお父さんも「まあまあだったね」とコホンと咳払いのひとつもして茶の間を辞し、仕事をはじめる振りをして会社のノートPCを開き、戦後最大のソ連スパイ事件である「フェアウェル事件」(映画の原題)を検索してみるがよいだろう。実話の映画化なのだ(リンク先の「フェアウェルファイル」を参照のこと。かなり下です)。

東西冷戦時代の1981年、ソ連の書記長はブレジネフ、後年ペレストロイカをはじめるゴルバチョフがその側近、アメリカ大統領はレーガン、CIA長官はフィニー、フランス大統領はミッテラン。前回の「一家団欒にこの1本」映画である「オーケストラ!」のボリショイ交響楽団の天才指揮者アンドレイ・フィリポフが、ブレジネフ政権のユダヤ人楽団員の排斥に抗議して、清掃夫に格下げされたのと同時期です。

KGBの幹部グリゴリエフ大佐(エミール・クストリッツァ)は、フランスの家電メーカーの技師ピエール(ギョーム・カネ)に、ソ連の機密情報を渡す。「世界を変えるためだ」と。しかし、ピエールはフランス国家保安局に頼まれただけの素人。大佐は代わりのプロを寄こせと怒り、ピエールも厄介事はまっぴらと上司に抗議するが、KGBと警察の厳重な監視下のモスクワでは、ノーマークなのはあいにくピエールだけ。

不本意ながら、KGB大佐と素人スパイは相棒となり、ソ連がつかんでいるアメリカの軍事機密や西側諸国にめぐらしたスパイ網など、大量の極秘情報がフランスを通じて、アメリカをはじめとする西側諸国に渡っていく。やがて、年齢も育ちも仕事も異なる二人に、少しずつ友情が芽生えて……。なるほど、片方が素人だから、プロであるKGB大佐は信頼しはじめ、お膝元のモスクワでソ連防諜網の眼も逃れたわけか。

ストーリーやその背景はさておき、なんといっても、この映画最大の魅力は、KGB大佐を演じたエミール・クストリッツァに尽きる。かなり歳を食っているが、大変な新人俳優が現れたものだ。若き日のジャラール・ドパルデューにも似て、セクシーで愛嬌があって知的な眼をしている。「第三の男」のオーソン・ウェルズから怪物性を除いてフランス人にしたような、容貌魁偉なのに柔和な表情とシックな動きがある。その分、KGB大佐がまとう超大国ソ連の尊大さの雰囲気に欠け、フランスの国際地位くらいに少し軽いのが惜しまれる。

エミール・クストリッツァが出たなら、すでに老年のドパルデューは席を譲らなくてはならないだろうし、ジャン・レノへの配役はまずは彼に振られることになるだろう。しかし、幸か不幸か、その怖れはたぶんない。エミール・クストリッツァは、旧ユーゴスラビアのサラエヴォ(現ボスニア・ヘルツェゴビナ領)出身の映画監督だからだ。それも、「アンダーグラウンド Underground 」(1995)を撮った世界映画界屈指の巨匠だからだ。

レーガン大統領にフレッド・ウォード、フィニーCIA長官にウイレム・デフォー。ほかに、ミッテラン仏大統領やゴルバチョフなど、1980年代の重要人物が登場する。カナダのオタワサミットに列席したレーガンとミッテランが側近や通訳を交えて、深夜の庭園で密会する場面があった。

当時、ミッテラン社会党政権の大臣に共産主義者が任命されたことに、レーガン政権が強く反発していたのに対し、ミッテランが暗号名「フェアウウェル」から入手したソ連の機密情報を直接手渡して取り引きする場面など、実話だからこそのエピソードだろう。エリゼ宮のミッテラン大統領の前で、フィニーCIA長官とフランス国家保安省の幹部が辛辣な議論を交わす場面もあった。

ほかに、「フェアウウェル」KGB大佐の上司チョーホフ(アレクセイ・ゴルブノフ)の、ダーク・ボガードのような黒い瞳が印象に残った。チョーホフこそ、「哀しみのスパイ」に似合っていた。監督・脚本: クリスチャン・カリオン。いまさらだが、ロシア、東欧、中欧は映画人材の宝庫だ。そうそう、「ミレニアム」の北欧も。

(敬称略)

永田洋子の死

2011-02-09 00:29:00 | 音楽
「アンヌ・マリー・ジャケ」からバイオリンづいていて、どちらもイツァーク・パールマン。なぜ、この曲かといえば、永田洋子の死から、あのときの死者のリストが甦ってきたからだ。そんな人は数少ないだろうが、永田洋子をも含め、俺は哀悼したがわるいかね。ちょうど、雪も降ってきた。私の住む町では、この冬はじめての雪らしい雪だ。

Schindler's List Theme by Itzhak Perlman






(敬称略)