コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

祝・長友インテルデビュー

2011-02-08 02:01:00 | ノンジャンル

長友、やっぱりやるじゃないか。楽々左サイドを突破してゴール前にアシストしている。中田より中村より活躍してくれ長友。イタリア語バージョンを探したが、残念ながらなかった。



日本サッカーの論考では、最近の出色。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20110203/218279/


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日本経済一人勝ち 4

2011-02-08 00:39:00 | ブックオフ本
中国の必要性も、マスコミがいうほどではないと。やっぱり、日本のことが書いてある経済本はよいなあ。この『アメリカ、中国、そして日本経済はこうなる』(日下 公人・三橋 貴明 WAC)を読むと、新聞やTVの政治・経済記事を鵜呑みにできないどころか、TPPや「第3の開国」(@菅直人)の狙いがアメリカや中国への思惑に応えているように思えてならない。日下はここで紹介したより、ずっと辛辣です。

また、「底上げ中国経済」の経済データのでたらめさだけでなく、実は日本の統計でも信用はできないなど、米中を批判的に検証する眼を日本にも当然向けている。「日本経済一人勝ち」「日本はいまだ世界一の金持ち」という日本自慢に陥っていない二人のバランス感覚。しかし、国債の担保は、「将来の徴税権」なのかあ。するとやっぱり、結局とどのつまりは、国民の借金ではないかしら? とあまりわかってないのですが、わかった気にさせるのがこの手の本の役割。ぜひ、ご一読を。933円です(私は100円で買ったけど)。

 三橋 鳩山さんの「東アジア共同体」とは、何をモデルにしているかがわからないんです。EUのような共同体をつくろうとするのであれば、中国は共産党独裁ですから、現時点では、それは成り立たないんですよね。

 そして中国は人口が約十三億人いて、精神的には反日です。日本はもう先進国でかつ民主主義です。それが→緒になったとしたら絶対に独裁国のほうが有利です。そういう意味では、政治的な統合などあり得ないでしょう。

 経済ということでは、日本の輸出はそもそもGDP比の十五%しかない。中国への輸出となれば、そのうちのまた五分の一ということになる。
たしかに自動車などは売れると言っても、たとえば自動車を一千万台輸出したといっても、自動車が日本の輸出に占める割合はといえば、五%以下です。

 日本の輸出の七〇%は資本財と原材料で、そもそも耐久消費財は全輸出の十~十五%程度しかない。その企業にとっては中国市場が大事でしょうが、日本経済全体にとってどうなのかというのが問題なのです。しかし、そういう議論はまったくない。


(敬称略)
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日本経済一人勝ち 3

2011-02-08 00:03:00 | ブックオフ本


 三橋 日中対外資産を比べると、いま、中国は外貨準備高が何百兆円になり、世界一などと騒がれていますが、あの意味をみんなわかっていない。「外貨準備高とは何ですか」と聞かれても、答えられる人は、日本人の千人に一人もいないと思います。

 日下 どうも、私もそうです(笑)。

 三橋 外貨準備高とは、その国の対外資産の中で政府が保有している部分です。図表12「日中対外資産比較」を見ていただければおわかりのように、日本の対外資産は全部合計すると約五百五十兆円あります。

 中国はと言えば、二〇〇八年まで二百七十七兆円。その二百七十七兆円の対外資産のうちの約百八十五兆円が政府保有分の外貨準備です。そのうち、米国債は八十兆円くらいです。二〇〇八年の数字なので、いまはもう少し増えでいるかもしれませんが。

 これは異常な話で、中国は、民間が貿易黒字を稼ぐと、をの時点では民間に対外資産が増えるのですが、それを政府が買い取ってしまっているのです。つまり、為替介入をしているのです。

 日本の場合は、為替介入をしていないので外貨準備高が増えない。日本は五百五十兆円の対外資産のうち九十六・八兆円が政府保有分で、対外資産全体の二〇%未満にすぎません。
 
 この数字と中国の百八十四・九兆円を比べて、「中国は凄い」と言っても、中国は対外資産の約六六%が政府保有分ですから「意味がない」のです。そこをきちんと理解してもらわないと困るのです。

 そのことがわかっでいて、「中国の外貨準備高世界一で、すごい」などと報道しているメディアなどは一つもないと思います。

 日下 三橋さんの本を読むと、マスコミがいかにいい加減かということがずいぶんと書いてある。私は「本当にそうだ、そうだ」と思って読んだ。

 読者の方は、「三橋さんとは何者か」と戸惑い、日本経済新開がインチキで三橋さんが正しいとはすぐには思えないでしょう。自分ではなかなか決められませんが、私がここで「そうだ」と言うのをプラスとして信じて下さい(笑)。


 三橋
 これほど日本には純資産があるにもかかわらず、メディアでは、日本の問題として、すぐに「国の借金が膨大にある」と言いますね。

 そこで、「国の借金とは何か」ということです。図表12の中国との比較を見ていただけば一目瞭然ですが、対外資産から対外負債を引いた差額、すなわち「対外純資産」は、日本は約二百五十兆円あり、世界最大です。つまり、世界一の金持ち国家なのです。ちなみに中国は約百四十四兆円です。

 それにもかかわらず、なぜ国の借金が騒がれるのかを、図表13「日本国家のバランスシート(貸借対照表)」と図表14「日本国家のバランスシート(グラフ版)」で説明したいと思います。これが日本国家の金融資産のすべての、バランスシートです。

 左側が資産、右側が負債です。日本の場合は資産が負債を上回っているので、右下の一番下の部分が純資産で、二百四十七・五兆円で、これは対外資産から対外負債を引いた額と一致するわけです。

 問題になっているのは何かというと、右上の一番上の政府の負債の九百七十九兆円です。メディアはこれを国の借金と呼んでいますが、、それは正しく言えば、国の借金ではなく、政府の負債です。

 日下 政府の負債とはすなわち財政赤字の累積額で、それを日本国家の赤字と一緒にしているんです。

 三橋 政府の財政赤字と日本国家の赤字は違うにもかかわらず、財務省が財政赤字だけを大声で叫び、それを新聞記者がまる写しで書いているわけです。(略)


(中略)

 三橋 「国の借金」ということでは、図表13と図表14で、政府の負債が九百七十九兆円とありますが、この政府の借金を「貸しているのは誰か」というのを考えてくださいということです。日本は外国から借りているわけではありません。

 貸しているのは、金融機関です。つまり、九百七十九兆円の債権者は金融機関で、左側の「金融機関の資産」の欄に二千七百二十七・五兆円の資産がありますが、その中に入っているんです。
 
 つまり、政府の借金は金融機関の資産に入っているんです。そして金融機関の資産ということは、個人の資産でもあるわけです。つまり、日本政府の負債の最終的な債権者は誰か、それは日本国民なんです。
 
 それをマスメディアが、国民一人当たり六百七十万円の「借金」と呼んでいるわけです。実際は、国民の借金ではなく、逆に国民が国家に貸しているのです。
 
 日下 それは、こういうたとえ話で説明できます。

 家計の責任者はお母さんだと。それでみんなに食べさせなければいけないので、ちょっと家計費が足りなくなると、家族みんなのへそくり(貯金)を回してもらう。
 たとえば、「お父さんの貯金を少しこっちに貸しなさいよ」と。それで足りなければ、お姉ちゃんやお兄ちゃんの貯金も、お母さんがそれらを「こちらに回して」と、それで晩飯をつくっで家族みんなが食べている。

 みんなは「へそくりはお母ちゃんに貸してある。いつかお母ちゃんが返してくれる」と思って安心している。そういうことですね。

  三橋 外部から借りていれば返さなければいけないので、後で大変ですが、家族から借りているので、お母ちゃんは返す気がないと(笑)。

 現実問題としで、国内から借りたお金を、政府が実質的に返したことは歴史上一度もないんです。インフレとか経済成長の中でだんだん薄れていって、みんな、そのうち忘れてしまうんです。


(敬称略)




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日本経済一人勝ち  2

2011-02-07 23:23:00 | ブックオフ本
1
三橋は、ゼロ年代の若者の雇用と所得確保に赤字国債を活用すべきと執拗に食い下がるが、日下はそれは若者の甘えと一笑に付す。

 三橋 日下先生、いまひとつよくわからないのですが、結局赤字国債は発行してはいけないということなんですか?

 日下 法律にはそう書いてある。

 三橋 もう法律の話ではなく、経済的に、われわれの福祉の話としてはどうか、ということです。

 日下 その「われわれ」って何ですか? それを働く人、貯蓄で暮らす人などに分けて考えなければいけません。

 三橋 それによって、若者の所得が上がり、購買力が上がるというような前提があったとき、そのための赤字国債を発行するのもダメなんですか。というのは、いまの若者たちはデフレで所得は上がりません。失業は増えています。それでさらに財政赤字を絞って、そういう人を増やしますよと言われても、それは反対しますよ。

 日下 三橋さんが若者代表としてそういうふうにおっしゃるのを聞けば、昔からの経済学にはそれに対する答えもあります。それはマーケット原理主義の答えになるのですが、まず若者がそんなに国家に頼るのが間違いで、そんなふうに国家に頼っていたら、自分で自分の首を絞めることになる。いまにお役所に何もかも命令されて、ぐうの音も出ない惨めな地位に落ちます。その歴史的経験なら私はたくさん知っています。

 三橋 そういうことが根幹にあるのはわかります。しかし、現実に所得が増えないデフレ社会の中で、若者に向かって「それはおまえたちのせいだ」と言われても困るわけです。
 
 日下 その通りです。で、第二の答えは、「困る」と考えるのが贅沢。

 三橋 そうかもしれないですが、解決策はあるわけじゃないですか。

 日下 ない、ない。

 三橋 ありますよ。いまの日本の場合は過剰貯蓄というのが問題で、運用先がないと言っているのですから。

 日下 その通りで、それが正解への道です。「運用先がない」ということから考えればいい。運用先づくりの第一歩は、開業や市場参入に対する規制の嬢和または撤廃です。それから所得税の廃止もあります。若者は勤勉になるでしょう。企業は一人ででも資本金一円ででもつくれます。

 三橋 たしかに、そういう考え方はありますね。ただし、現実問題としては、たとえばいま企業という存在が大きいわけです。その企業自体が若者に対してチャンスを与えないとか、所得をだんだん減らすとか、失業者を増やすことをやっている。まず、そちらを建て直したほうが早いと思うんです。

 日下 そういうことを言う若者は意気地なしですね。昔から何千年もの間、そんなことを言っで生きてきた人はいない。そういう人間は乞食になって死んだ。

 三橋 団塊の世代などは、まさに「社会が悪い」と言ってきた意気地なしじゃないですか。でも、乞食になって死んだわけではない。

 日下 そう、あれは極めて幸せなときに大量発生したバイキン。(笑)

 三橋 いや、わかるんですよ。だから「おまえたちが頑張れ」というのはわかるのですが、まず環境を整えなければ、デフレの時代には、やはりビジネスだけでは回りませんよ。「起業しろ」というのは簡単ですが、じやあ、需要はどこにあるんですか。どんどん物価が下がってくるところで絶対に需要は生まれませんよ。

 日下 そういうこと言っているのは、既得権益の中で育ったお坊ちゃん。(笑)

 三橋 そりやそうかも、それは認めますけど。


(敬称略)
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無題というタイトルがふさわしい

2011-02-03 00:41:00 | レンタルDVD映画


オーケストラ!」のような一家団欒にこの一本という感動作もあれば、一家団欒で絶対に観べきではない「エンター・ザ・ボイド」という問題作もあるのが、フランス映画界のわけわからないところ。前作「アレックス」がカンヌ映画祭で上映された際には、「イタリアの宝石」モ二カ・ベルッチが延々26分にわたり陵辱暴行される凄まじいレイプシーンに1500人の観客のうち、200人が途中退場したといわれる、あのギャスパー・ノエ監督の新作です。

観客の不快と嫌悪を味あわせ、青少年のトラウマとなる映画をつくる監督としては、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のラース・フォン・トリアー、「ファニーゲーム」のミヒャエル・ハネケ、「レクイエム・フォー・ドリーム」のダーレン・アロノフスキーと並ぶのが、このギャスパー・ノエ。しかし、新作、『エンター・ザ・ボイド』(Enter the Void)では、凄惨な暴力は影を潜めています。

舞台は、ネオンとセックスとドラッグの東京。ただし、欧米のSF小説に書かれたアキバとオタクのキッチュでバーチャルなTOKYOではなく、上海やソウルでもかまわない、どこともつかない国籍不明のアジアの都市空間に思えます。タイトルクレジットには、多数の日本人俳優の名が連なりますが、顔のアップは皆無。誰がだれだかわかりません。

主な登場人物は、ドラッグのディーラーやジャンキーやストリッパーなどの不良外人。日本人もアジア人だという区別がかろうじてつくくらいですが、外人も俳優らしい俳優はほとんど登場しません。男女がぼそぼそ喋りうろうろするだけ。新宿歌舞伎町や池袋西口の若者たちを流したTVドキュメンタリのように、安手の映像です。

ただし、しかし、その映像が途中から変わります。視点が、視線が、カメラアイが宙に浮いて移動するのです。オスカーというドラッグのディーラー兼ジャンキーの一人称で映画は始まります。TVの街頭インタビューでは、マイクを向けられた人は映されるが、マイクを持ったインタビュアーは声のみで姿は表さない。同様に、洗面所でオスカーが顔を洗うときに、はじめて鏡に映ったオスカーの顔形が観客にわかります。

そして、カメラは浮く。室内の天井に、屋根に、ビル群の上に。ほとんどが真上からの俯瞰撮影です。したがって、人間の頭頂しか映されない。室内を隔てた薄い壁を越え、外壁から狭い道路をまたぎ、また違うビルの外壁を越えて室内へ、カメラは密集した盛り場の空間を隙間を自在に移動していきます。この映画の重要な脇役は、ネオンと蛍光灯といえます。全編、大半が盛り場の夜のシーン。月明かりもかすむ、人工照明の点滅が見せつけられます。

ここから先はネタばらしになるけど、たぶん、たいていの人はこの映画を観ないだろうから、かまわないでしょう。いかがわしいボイド(Void)というクラブの汚い和式便所で死んだオスカーの幽体離脱した視線=カメラなのです。死ぬと魂が身体を離れて、上から死んでいる自分を見下ろすというやつ。したがって、生きている人々の頭頂しか、私たち観客にも見えなくなる。全身や四肢が映るのは横になってするセックスの場面くらいです。

離脱したオスカー視線は、水槽に土を入れてつくった蟻の巣の断面を見るように、狭い空間を人が移動し、話し、集まり、性交するのを見ていきます。この映画の主役は、視線そのものかもしれません。観客は、傍観者として、ただ見ていくしかありません。営みというにはあまりに矮小な人々の頭部の動きと声を。観客にとっては、上から下を見下ろす視角に固定されたロードムービーのようなものになります。

ポールダンスのストリッパーをしている妹のリンダ、その愛人のマリオ、ドラッグ友だちのアレックスやビクターの間を行き来して、安アパートや風俗ビルやいかがわしいクラブを彷徨うだけだったオスカー視線は、やがて眼前で両親が交通事故で死んだ遠い過去から、ビクターの母親とセックスした近い過去、やがて輪廻転生を思わせる未来まで時間を往還していきます。

孤児となって別れ別れになったオスカーとリンダが再会するまでが明らかにされますが、空間移動から時間移動するなかで、媒介となるのは、この妹リンダです。風俗クラブを経営するヤクザらしいマリオとのセックス場面は、私たちがよく観てきた欧米の映画の男女セックスシーンとは、ずいぶん違います。愛の交歓といえるような美しい絡み合いではなく、女は快感に呆けたように、男はまるで自慰しているように、孤独な肉体を交換するだけです。

風俗クラブの狭くて乱雑な控え室や安っぽいラブホテルで交わるリンダ。このあたり、日本のアダルトビデオの影響がうかがわれますが、少しも男性観客の「劣情」は刺激されないでしょう。リンダに淫猥さは漂うのですが、同時に生殖行為の生々しさにそれはつながっているように思えます。リンダは愛や恋のためではなく、売春というのでもなく、
生きるために、暮らしのなかでマリオや他の男とセックスします。

欧米の映画で、こんな風に生々しいセックスシーンを見た覚えがありません。マリオが乳首にしゃぶりつくと、母親の授乳に場面が転じ、膣に出入りする亀頭を子宮側からとらえたり、堕胎手術の様子をはさんで、卵子に着床する精子の顕微鏡撮影を挿入したり、尻取りのようなつながりと双六の上がりのような輪廻転生イメージのベタさには、いささかうんざりさせられます。

このクソリアリズムとあったまのわるい展開は、どこかあの若松考二監督作品を思わせます。この場合、「あったまのわるい」は褒め言葉です。知性と教養に邪魔されず、「あったまのわるい」主張をくどく繰り返すメッセージ性のことにほかなりません。幽体離脱した視線や輪廻転生のイメージは、観れば誰でもわかることですが、ギャスパー・ノエのテーマも最後までつきあえば、誰でも理解できることでしょう。一言でいえば、無残なる生、ということになる。私たちは、無残なる生、を生きている。ギャスパー・ノエはただそれだけを映したいのです。

その無残さを、一人リンダがその生々しい女体によって救っている。リンダには母と輪廻転生が重なる。と、やっぱり、「あったまのわるい」構図が描けるわけですが、やはり、リンダがこの映画の見どころかもしれません。ほかに見るべきものは少ないし。正直にいうと、半分、早回し1で観ました。浅草あたりで800円で売っている万華鏡を覗いたような、ちゃちなドラッグ幻想シーンや人魂くらいの速度でゆっくり横移動するカメラが、実に退屈だったからです。

なんだかわからない芸術映画ではありません。なんだかわかりすぎるくらいなのに、なんだか考えさせるのです。ギャスパー・ノエの「2001年宇宙の旅」かなとも思えます。「2001年宇宙の旅」も、単純な時系列で構成し直すと、『エンター・ザ・ボイド』(Enter the Void)とよく似た映画になりそうです。ちなみに、Void(ボイド)は無という意味だそうです。やっぱり、「あったまのわるい」人にお勧めです。

(敬称略)
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