秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

閉業のお知らせ

質店は2021年8月に閉店いたしました。 昭和21年9月創業で75年間にわたりご愛顧賜りありがとうございました。

子持ち銀河

2011-05-12 | 日々是好日
5月に入り、ずっと気になっていることがあります。

カレンダーをめっくたら渦巻銀河がとてもキレイなんですが、
小さいほうの銀河にお坊さんのような顔が見えるような気がしませんか。



このカレンダーはトイレにあり毎日何度か見入っています。

画像左下の説明には
りょうけん座の系外銀河・M51

私たちの銀河系に比較的近いところにある、りょうけん座の渦巻き銀河です。
大きな銀河(M51)に小さな銀河(NGC5195)がくっついているため、子持ち銀河と呼ばれて親しまれています。
おおぐま座との境界近くにあり、双眼鏡では淡い光のシミとして見ることができます。
口径10cmクラスの望遠鏡でも2つの銀河の光芒はわかりますが、
子持ち銀河らしい姿を見るためには、口径20cm以上の望遠鏡が必要でしょう。
(データ 2010年2月21日 03:03~10分露出 静岡市の大島良明氏撮影)


これまで子持ち銀河って全く知りませんでした。
ちょっと調べてみました。

宇宙情報センター
の画像は(c)NASA, ESA, S. Beckwith (STScI), and The Hubble Heritage Team (STScI/AURA)


やっぱり何か見えるような気がする。

渦巻銀河の中心には太陽の100万倍以上にもおよぶ巨大なブラックホールが存在すると考えられていて、渦巻銀河全体はこのブラックホールを中心に回転運動をしているそうです。

そして大きい銀河よりも小さい銀河のほうが重いらしいから
何か見えるような気がするのかもしれない。

ナショナルジオグラフィックでの画像は


ケン・マッキントッシュ氏が2010年4月に撮影し、
グリニッジ天文台主催の2010年度天文写真コンテスト(Astronomy Photographer of the Year contest)の「新人賞(Best Newcomer)」を獲得した一枚だそうです。

初めて茶臼山にのぼった

2011-05-10 | 日々是好日
大阪市立美術館は天王寺公園の中にあります。
なんと公園をとりまく塀ができ入場料が必要になってて驚いた。
美術館や天王寺動物園に行く人はその入場券で入れます。
ただ公園へ入るだけなら150円です。

2000年にフェルメール展を見た時以来の訪問だった。
当時はそんな囲いなかったよ。
たぶん2008年の北京オリンピックの時大阪も立候補してたから、
ホームレス対策とかで入場料を取ることにしたのかもしれない。

中に入って、すぐに水上ステージがあり、奥に通天閣がきれいに見えました。
左手が動物園、ここはそのうちエソラと一緒に行きたいな。
右手に美術館
   

さらにその奥に慶沢園(けいたくえん)という日本庭園がある。

明治以降は住友家邸宅の敷地の一部となっていて、大正14年に大阪市に寄付された立派な庭園だった。
昔は入場料が必要だったけど、今は無料。

美術館左手に河底池


788年、和気清麻呂が旧大和川の流れを変えるため切り開いたそうだ。
少し前に堀越神社前の道がV字に凹んでいるのは、和気清麻呂掘削の後と知った。
なんとこの河底池も、茶臼山古墳の濠を利用して上町台地を開削しようとして失敗した跡地だったと伝わる。


茶臼山が天王寺公園の中にあるのは知ってた。
天王寺がターミナルとなる阪和線の沿線に友人の一人の家があり、
よく天王寺で会って、ただで座れる公園に何度も行ったものだった。
しかしこの年になるまで茶臼山近辺には近づいたこともなかった。



橋の先に見えるこんもりとしたお山が茶臼山です。
標高26メートル!

茶臼山は大阪市内の「3大前方後円古墳」の1つとされてきたが、
近年発掘調査などにより円墳若しくは自然丘陵ではないかと疑問視されてるようだ。
2009年の発掘調査で水銀朱を塗られた石室らしきものが発掘されるも、被葬者は不明。


橋を渡り右に廻ると頂上に向う階段があり、右手に『史跡 茶臼山及河底池』の石碑が建っています。


茶臼山の戦いの陣形の看板が立てられていた。
1614年大坂冬の陣で徳川家康が本陣を置き、翌年の大坂夏の陣では真田幸村が陣をしいた。
この夏の陣で幸村は奮戦むなしく、ここから少し離れた安居神社の境内で戦死したと伝わる。

茶臼山の頂上

頂上を示す標識は何もなく、ただ木が立ってるだけ。
私よりは年上らしきおっちゃん二人が手持ち無沙汰にウロウロしてた。
おばちゃんが長居するところではないと
この木だけ撮影してすぐに立ち去りました。

その近辺には他にもおっちゃんグループが居た。
大阪夏の陣は1615年5月7日と書かれてあったので、真田幸村ファンの集いとかで何かを偲んでいたんだろうか…

幕末の奇想の絵師「没後150年 歌川国芳展」

2011-05-08 | 日々是好日
大阪市美術館で「没後150年 歌川国芳展」を観てきました。
今日5/8までが前期展示で、10日から後期展示で400余点も公開されるそうです。

江戸時代末期の同時期に活躍した葛飾北斎や歌川広重に比べると、
歌川国芳って誰?って感じでこれまで全く知りませんでした。


東日本大震災の前に、浮世絵に「スカイツリー」が予言されてる?と話題になりました。

歌川国芳「東都三ツ股の図」1831年(天保2)ごろの作品

隅田川にシジミ取りの舟が浮かび、手前には舟底をいぶす2人の職人が描かれ、左奥は対岸の江戸・深川辺りで、他の建物を圧するような細長い構造物が二つ見える。
左側の低い方は当時存在した火の見櫓とされ、その右の巨大な組み立て式の塔は実在しなかったという。
 

この浮世絵を所蔵していた川崎・砂子の里資料館の斎藤文夫館長は
「当時は江戸城より高い建物は建てられない決まりがあった。
江戸の街を見下ろしており、東京スカイツリーを予想したような恐るべき独創性に驚く」と話している。

この話題をTVや新聞で見ても、歌川国芳の名前は記憶に残らなかった。

先月、坐摩神社について調べていて、天満橋あたりの渡辺津のつながりで渡辺綱の浮世絵がヒットしました。
  
歌川国芳『本朝武者鏡 渡辺綱』 大判錦絵 安政2(1855)年 

これでやっと記憶に残り、たまたま大阪市立美術館で展覧会だったのです。

今回の展覧会で印象に残ったものはたくさんありますが、
館内撮影禁止ですから、画像検索でうまく拾い出せたものをご紹介します。

「しんば連 魚かし連 市川三升へ送之」

幟(のぼり)に朱で書かれた鐘馗さま。
ワクチンが無かった時代、疱瘡を軽くする疱瘡除けだったそうだ。
鐘馗さまの顔は、江戸より追放され大阪で暮らしていた5代目市川海老蔵の似顔絵。

「坂田怪童丸」
 
坂田金時、いわゆる金太郎さんです。

「金魚づくし 百ものがたり」
 

「牛若丸僧正坊隋武術覚図」

鞍馬山で源義経に武術の手解きをする大天狗の鞍馬山僧正坊(中央)がなんとなく西洋人のような雰囲気。
去年鞍馬天狗で記事にした時に思ったのと同じようでちょっとうれしかった。

「開運出世合体七福神」
 


20世紀後半になってから「幕末の奇想の絵師」として注目され再評価されるようになった 歌川国芳。

ウイットに富み、ユーモアがあり、構図が大胆で近代的アングル、
シュールでエキゾチック。
こう評価されてると見たくなるでしょう。

没後150年 歌川国芳展

2011/4/12~6/5 大阪市立美術館
2011/7/9~8/21 静岡市美術館
2011/12/17~2012/2/12 森アーツセンターギャラリー(東京・六本木ヒルズ)

京焼陶あんの陶板・妙楽寺

2011-05-05 | 日々是好日
京焼・清水焼窯元・陶葊(とうあん)の器です。
端午の節句で和菓子はこいのぼり。
ちょっと不調法ですが、吸出し椀にインスタント珈琲。

今日は、妙楽寺さんで大つつじを眺めながらのお食事会でした。
最後の〆に甘いもので、お寺の器をお借りしたのでした。

わぁ~、陶あんの食器だ~
高いのは知ってました。
友人がデパートで湯飲みを買うのに付き合ったことがあったからです。
当時湯飲み茶碗1つが1万円ぐらいしてました。
さきほど確かめたら少し安くなってましたが、それでもいいお値段です。
 京焼・清水焼窯元・陶葊(とうあん)

何度かネットオークションで出品したことがあります。
出品するには正確に窯元の名前を書かないといけません。
器の裏の刻印見ても、陶葊という字はとても難しくて読めませんでした。
PCのIMEパッドの手書き入力で検索して、「とうあん」と判明。

なんとこの陶葊でオーダーされた陶板が新しくなった本堂に飾られていたのです。
お値段おして知るべしです。







妙楽寺さんは、この4月29日に落慶法要を終えられたばかりです。
本堂が新しくなりました。


2009-04-26 樹齢三百年越える大つつじ 
2年前の本堂と大つつじ




今日はすでに満開を過ぎてしまってて、ちょっと残念。


ソテツもつつじも工事期間を立派に乗り越えました。
新しくなったお寺で、またこれからも歴史を刻んでいくことでしょう。
お寺を守り続けてきたお寺の住職さん一家、檀家の皆さん方の努力で落慶を迎えることができたのだと思います。

妙楽寺は浄土宗で、折りしも今年は宗祖の法然上人800年大遠忌。
住職さんはちょうど今年落慶できたといろいろお話してくださいました。

浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、
歴史の時間には習いましたけど、それ以上のことはさっぱりです。

法然上人が詠まれた「月かげ」のお歌
「月影の いたらぬ里は なけれども ながむる人の 心にぞすむ」

『観無量寿経』の一節「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」を超簡潔にいいあらわしたお歌だそうです。

「南無阿弥陀仏」と声高くただ一心に称えることにより、すべての人々が救われる。
厳しい修行を経た者や財力のある者だけが救われるわけではないと。

法然上人は平安末期の1133年美作国でお生まれになり、1212年80歳で入寂。

「智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし」

いくたびかの盛衰も多くの人々の支援によって乗り越え、
800年以上、念仏の教えは生き続けてきました。

ジャスミンいろいろ

2011-05-04 | 四季折々・色とりどり
家の近くの四つ角を曲がる前からいい香りがした。
この匂いは… ジャスミン!

韓国居酒屋さんの入口壁面に羽衣ジャスミン(Jasminum polyanthum)
近づくとハンパない強烈な匂いで、
満開になったらどれほどの匂いとなるんだろう。
過ぎたるは及ばざるがごとし、かな。


同じように白い肉厚の花をつけるマダガスカルジャスミン。
  
4年前、ジャスミンだと言われて購入した鉢植えの画像です。
そのときの日記は→2007-06-27

香りがジャスミンに似ていることから付いた名前ですが、
ホントはジャスミンの仲間ではなくてトウワタ科ステファノティス属。
オランダではマダガスカルジャスミンとウツギを花嫁花といい、結婚式のブーケによく使われるそうです。

お茶になるジャスミンはマツリカ(茉莉花)Jasminum sambac
 
Wikiページの画像です、こんなにきれいな花が咲くのですね。


中国といえば、ここ数日、大陸から飛来する黄砂で空は曇りのように視界が悪く、車はすぐにまっ白になります。

東アジアの広域大気汚染マップ/黄砂と大気汚染物質の濃度予測分布図(地上付近)
国立環境研究所の環境情報メディア「環境展望台」より
5月4日18時


15時間前の5月4日3時


この二つを比べると、ゴビ砂漠近辺のオレンジ色が濃くなってます。
という事は、また新たに砂がたくさん巻き上げられ飛び始めたということ。
数日たてば日本に飛んできます。

そして中国本土を飛んだときに、硫黄酸化物などの化学物質や重金属、カビや微生物の死骸などが黄砂にくっついて、日本列島まで運ばれてきます。

日本に降下するセシウム137の起源は、1980年代以前のグローバルフォールアウト(地球規模の核実験などによる放射性降下物)に由来することが判明しているそうです。
黄砂に含まれるセシウム137は、半減期が約30年と長寿命の人工放射性核種であるため、公衆被曝の原因になってるとか。

4月29日 目に留まったものあれこれ 19番札所行願寺

2011-05-03 | 西国33箇所
ウサマ・ビンラディンが殺害され海で水葬に付されたそうですね。
リビアではカダフィーの息子が空爆で死んだそうだし、
英国皇太子とキャサリン妃の新婚旅行は予定していたヨルダンが緊迫しているので変更するそうだし、
アメリカ南部一帯を襲った竜巻はこれまでに死者が350人を超えたとか。
日本もたいへんですけど、なんか世界中、次々といろいろ起こってるようです。

こんなお気楽に西国33箇所の朱印集めの行楽日記書いてていいのかな…
とすこし躊躇しますが、4月29日に目に留まった気になるものを記録に残しておきます。


清水寺にある阿弖流為・母禮(アテルイ・モレ)の顕彰碑
1994年平安京遷都1200年記念で建立されました。
「蝦夷征夷」がいったい何を意味していたか、
ということを考えさせるための大きな機縁になりうるかどうか、
この顕彰碑に足を止める人はほとんどいないようだった。


清水の本堂舞台造りは139本の柱が支えているそうで、1本の白いつつじが満開だった。

清水境内図は→こちら 


29日4つ目に朱印をもらった19番札所・霊麀山革堂(こうどう)行願寺


かなり年配の足の不自由なおばあさんが、本堂階段下で祈られていた。
お寺に入る前に信号越しに撮影した画像にすでに写ってます。
このあと朱印もらって、境内を探検して、まだ祈られてました。

やっとお祈りを終わられたおばあさんと軽くご挨拶。
何を祈られてたんでしょうね。

立派なお線香を立てる大きな香炉(正式名称わかりません)




境内には<鎮宅霊符神堂>の他に<加茂大明神五輪塔>もありました。
道仏混交、神仏混交、なんでもありのお寺でした。

開祖の行円上人が加茂大明神を勧請して建てたと伝わる五輪塔。
下から、正方形、円形、三角形、半月形、宝珠形(又は団子形)の石は、
真言密教で地水火風空をしめすそうだ。

下から二番目の水輪の石に四角い穴を開けてその中に不動明王の石仏が祀られています。

五輪塔は昔の人々が仏教の哲理を踏まえ、思いをこめて作り、祈の対象としてきたから強い霊的磁場になっているらしい。


革堂行願寺にお参りした後、京阪三条まで戻る途中、御池大橋を渡る手前で出くわしました。

「蓮如上人様のお通~り~」

先導の人の掛け声とともに蓮如上人御影道中を初めて見ました。

「蓮如 4月29日」の検索でわかったこと。

蓮如上人(1415~1499)の御影を門信徒の待ち受ける吉崎御坊へ運ぶ旅(御下向)が連綿として続けられています。
京都東本願寺をでて、大津市の小関、高島の勝野、その後、福井県のあわら市の吉崎別院まで240km
蓮如上人が歩いたといわれる道程を、随行教導や宰領をはじめとする供奉人方が、会所に立寄りながら一週間かけて歩かれます。
そして吉崎別院では、御影をお迎えした後、「蓮如上人御忌法要」を10日間にわたって厳修し、上人の遺徳を偲びつつお念仏を申す喜びに遇うために全国各地から多くの方が参詣されます。
吉崎別院における法要後、真宗本廟に向け帰路約280キロの道程の御影道中の旅(御上洛)が始まり、東本願寺における御帰山式をもって御影道中は終了します。


緑青々と六角柳 at 六角堂

2011-05-01 | 西国33箇所
聖徳太子創建の西国18番札所・紫雲山頂法寺は、京都市内ど真ん中にあり六角堂の六角さんで親しまれています。



本堂前に植わった六角柳は、枝が地面すれすれまで伸びる姿から「 地ずり柳 」とも呼ばれます。
小野妹子が植えたのが始まりだとか。
なんとここでも小野家がかかわっていました。


境内東北の池の隅に浮かんでいる建物は太子堂。
この池のほとりに小野妹子を始祖と伝える僧侶の住坊があったので「池坊」と呼ばれるようになり、いけばな発祥の地となりました。



西隣にいけばな研修教室などが入る10階建てのビルがあります。
18番札所の西にあるからウェスト18とい名前です。
エレベーターのうち1台は展望エレベーターで、六角堂の特徴的な屋根を上から見ることができるそうです。
知らなかったので画像もらってきました。


「六の角」とは六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)によって生ずる六欲のこと。
人間の欲望、煩悩を脱して角を無くし円満になること。
「六根清浄を願う」という祈りを込めて六つの角を造ったと伝えられています。

六角堂の詠歌 
 わが思う心のうちは六の角ただ円かれと祈るなりけり


境内の「へそ石」は本堂古跡の石ともいい、ここが京都の真ん中。


平安遷都のおり、六角堂の所在が道路の中央にあたったので、桓武天皇の勅使が出向いて六角堂に向かってお願いしました。
「この土地を離れたくないとおぼしめしならば、どうか、南北いずれなりとも、お移りいただきたい」。
すると、にわかに天がかき雲って怪しい風が起こりました。さては観音さまがお怒りになったかと思ううちに、六角堂がひとりでに5丈(15m)ばかり北へ退いたといいます。


親鸞は、毎夜比叡山から六角堂に百日間参籠りをし夢のお告げによって浄土真宗を開いたんだそうです。

街中のさほど大きくない境内が緑あふれ、その青々と勢いある様はこの地がとてもパワーのあることを感じさせてくれます。

境内南東に一言願い地蔵


欲張らずに一つだけ願い事をすると叶えられるといわれています。
首を傾けているのは、参拝者の願いを叶えてあげようか、どうしようかと考えておられるお姿だそうです。

高瀬川沿いのビストロでランチ

2011-05-01 | おでかけ・近畿
東山の清水寺より松原通りを下り、六道珍皇寺、六波羅蜜寺へより、
京都市内を南北に流れる鴨川にかかる松原橋を渡りました。


鴨川と平行して流れる高瀬川沿いの木屋町通りを北へ走ってたら、
   

高瀬川に面して、オシャレなビストロが目に留まりました。
入口は西木屋町通りにあります。


ビストロ クードクール Coup-de-coeur
 下京区西木屋町通松原上ル清水町454-3
 電話番号075-353-5150
 水曜定休

ランチは3種類あり、一番安い1500円にしてデザートを300円で追加。

まずオードブル


フランスパンとそれにつけるオリーブオイルとハーブ入りソルトもメッチャ美味しい。
続いて最初の画像のそらまめのスープ。
そしてメインディッシュは魚でした。


珈琲に、追加デザートはグループフレーツのタルトで締めくくり。
(画像なし)

高瀬川を挟んで向かいのビルに次々と人が吸い込まれていきます。
タクシーで乗りつける人も多数いて、何やさんなんだろうと気になる。

ビストロのスタッフに尋ねると、かつては料理屋さんだったのが現在は貸し会場だそうだ。
今日は結婚式場関係者が借りてたのかも。
どおりで結婚式下見っぽいいでたちの人が出入りしてたんだ。


高瀬川はせせらぎというには流れは意外と早かった。
葉桜となった新緑を眺めながらのランチ、
1890円はお値打ちありました。



高瀬川一之船入 再現された高瀬舟

高瀬川は江戸時代初期に、京都の中心部と伏見を結ぶために物流用に開削された運河です。
京都中心部三条から四条あたりにかけての高瀬川周辺は、京都の歓楽街の一つであり、桜の名所でもあります。
幕末の事変を示す石碑も多くあり、気持ちよく歩けると思います。