A Challenge To Fate

私の好きな一風変わった音楽を中心に徒然に綴ったページです。地下文化好きな方は見てやって下さいm(_ _)m  

幻覚マイムの思い出~乞CD化!

2012年05月13日 00時33分34秒 | ロッケンロール万歳!


90'sヴィジュアル系バンドの幻覚アレルギーじゃなくて「幻覚マイム」。このバンドを知っている人はかなりの80'sインディーズ通だと思う。自己の作品は1986年に太陽レコードからEP「幻覚マイム」を1987年にトランス・レコードから12インチ・シングル「Butterfly」をリリースしたのみで、あとはいくつかコンピに参加した程度。サディ・サッズやアレルギーのようにメディアに大きく取り上げられることもなく、マニアックなファンの間で支持されたバンドである。メンバーは幽太郎(vo,g)、Bin(b)、Taka(ds)の3人。幽太郎君は1996年に本名の羽原裕太郎の名でプロペラというバンドを結成、メジャー・デビューしかなりの人気だったという。

1980年代半ば私が大学4年で就職も決まった冬に、どういう経緯か覚えていないが誰かの紹介で吉祥寺で幽太郎君に会い、自宅まで連れて行って好きなレコードやギター演奏を聴かせた。気に入ったようで次の練習の時試しにギターを弾いてくれと頼まれ、幻覚マイムのデモ・カセットを渡された。ヴォーカルに専念したいのでギタリストを探しているとのことだった。私は自分のバンドが解散し特に演奏活動をしてなかったのでいいよと応えた。

その時私は銀縁メガネにボサボサ髪にどてらを着ていたので「スタジオに来るときは出来るだけパンクかニューウェイヴっぽい恰好で」と釘を刺された。また翌年2月にヨーロッパへ卒業旅行に行く予定だったが、もしバンドに入ったら合宿があるので行けなくなるよとも言われた。何だかな~と思いながらカセットを聴くとギャング・オブ・フォーみたいな硬質なギターにエイリアン・セックス・フィーンドやジーン・ラヴズ・ジザベル風のネオ・サイケなメロディのポジティヴ・パンクで結構カッコいいなと感じた。

練習当日古いコンタクトレンズで充血した目をして黒いシャツにカシミアのコートを着込んで新代田のスタジオに出向いた。ベースとドラムの二人は如何にもロッカー然としたブラック・レザーに身を包んでいて、幽太郎君もメイクをして気合いが入っていた。2時間程一緒に演奏。完コピではなく自分なりにフレーズやエフェクターを工夫した。久々にマジでギターを弾いたので右手が切れて血が噴き出した。そんなに悪くないじゃん、と思ったが、あとで幽太郎君に聞くと他の二人が「全然別のバンドみたいだ」と不満だったらしく参加の話はなくなった。その数日後に中野Plan Bで彼らのライヴを観た。ギターがギブソン系のハムバッカー。私はアクリルボディのストラトだったのでそりゃギターの音が全然違う訳だと納得。トリオとしての一丸となった演奏は他者が入り込む隙がないくらい堅固なものだった。

それ以来彼らに会う事もなく、インディーズでレコードが出た事もロフトやラママで筋肉少女帯やアサイラムやYBO2などの名の知れたバンドと共演し熱心なファンを集めた事も知らないままだった。

ググってみるとさすがにwikiは無いがいくつかのインディー系ロック・サイトに紹介があり、結構高い評価をされている事がわかる。掟ポルシェ氏が新宿ロフトの30周年記念メッセージで書いている。『汗だくになるまでヘッドバンギングした幻覚マイムのラストライブが終わった後、客として来ていた同じく汗だくの大槻ケンヂさんに「カッコ良かったですね」と声をかけたら「これで終わりなんてもったいないよね」と残念そうに、でも充実感に満ちた笑顔で返してくれたこともあった思い出のライブハウス』。

私はどうしてもヨーロッパ一人旅をしたかったので加入出来なくて幸いだったのだが、彼らがずっと3人組で活動したことを考えると、色々セッションしてみてトリオが一番という結果に落ち着いたのかもしれない。






あのバンド
参加してたら
どうなった?

年寄りの昔話はこれでおしまい。お付き合いありがとうございました。
コメント
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