古寺をまわるとき、それぞれの寺で線香を買う。微妙に異なる香りをたのしむ。最近はたっぷりある時間ので、しばしば線香に火をともす。香りが家全体に流れ、心地よくなる。
こういう趣味を話すと、「変人だ」と嘲笑されたりしたが、それでも変えるつもりはない。
村上春樹の『辺境・近境』を図書館から借りる時、その隣に辻井喬の『古寺巡礼』が目に入り、一緒に借りてきた。今読み終わったが、そこに浜松市内の三ヶ日にある摩訶耶寺と大福寺がでていた。ここは未だ「巡礼」したことはないので、行ってみるつもりだ。
『古寺巡礼』は和辻哲郎の本(岩波文庫)で有名だが、そのほかにこういう本を書いているのは、白洲正子、瀬戸内寂聴、五木寛之などだ。五木のものは、少し読んでみたが、つまらない文が並ぶ。五木寛之の小説を読んできた私としては、五木がこんなにもつまらないことを書くようになったのかと悲しく思ったものだ。
白洲のこの種の本は(たとえば『近江山河抄』講談社文芸文庫など)、近江などあまり注目されない「古寺」を紹介しているので、なかなか参考になる。とにかく白洲は、訪れたところに関係する文献を読んでいる。渉猟しているといってもよい。白洲の本をあまり読んでいるわけではないが、いろいろ教えられると同時に、示されたところに行ってみたくなる。
五木のものは、五木が「古寺」に行って、あーだこーだと思ったことをただ書き連ねる。「あーそうだったの!」で、読んでいる方もお終い。発展性がない。
作家・辻井のものは、五木本に近い。ただし書かれている内容に社会性がある。「あーそーなの?」で終わることは終わるのだが、訪問した「古寺」に新鮮さがある。先ほどの摩訶耶寺とか大福寺、福井県小浜の明通寺、正法寺、羽賀寺、滋賀県長浜市の神照寺、総持寺、高島市の大善寺、岐阜県揖斐郡の華厳寺、横蔵寺など、私が未だ訪問したことのない「古寺」が並ぶ。
東北地方の「古寺」もある。宮城県の瑞厳寺、福島県河沼郡の惠隆寺、勝常寺、岩手県奥州市の正法寺、黒石寺など。これらの「古寺」は無事であったろうか。
私は京都にある寺も訪ねるが、近江にある「古寺」の方が好きだ。京都のは、知恩院にしても東本願寺にしても巨大すぎる。巡礼者を睥睨しているかのようだ。しかし近江にある「古寺」は、いずれも視線が柔らかである。威圧感がない。本来仏教というのはそういうものでなければならない。
先日墓参に行った。私の菩提寺は遠江四十九薬師霊場の一つとなっているため、40人くらいの「善男善女」の方々が参詣に来ていた。お年を召された方々が多かった。長寿や家内安全、無病息災などをお祈りするのだろう。
日本の仏教というものは、こういうものでなければならない。迷える衆生の傍らにそっと寄り添い、死後の安心を支えるというような。
仏道に生きる者は、現世で信者から高額なカネを請求してはならぬ。そのような者は、地獄に落ちよ!と言いたい。私の菩提寺は住職がいない。近くの坊主が兼職しているが、その坊主はカネの亡者である。
こういう趣味を話すと、「変人だ」と嘲笑されたりしたが、それでも変えるつもりはない。
村上春樹の『辺境・近境』を図書館から借りる時、その隣に辻井喬の『古寺巡礼』が目に入り、一緒に借りてきた。今読み終わったが、そこに浜松市内の三ヶ日にある摩訶耶寺と大福寺がでていた。ここは未だ「巡礼」したことはないので、行ってみるつもりだ。
『古寺巡礼』は和辻哲郎の本(岩波文庫)で有名だが、そのほかにこういう本を書いているのは、白洲正子、瀬戸内寂聴、五木寛之などだ。五木のものは、少し読んでみたが、つまらない文が並ぶ。五木寛之の小説を読んできた私としては、五木がこんなにもつまらないことを書くようになったのかと悲しく思ったものだ。
白洲のこの種の本は(たとえば『近江山河抄』講談社文芸文庫など)、近江などあまり注目されない「古寺」を紹介しているので、なかなか参考になる。とにかく白洲は、訪れたところに関係する文献を読んでいる。渉猟しているといってもよい。白洲の本をあまり読んでいるわけではないが、いろいろ教えられると同時に、示されたところに行ってみたくなる。
五木のものは、五木が「古寺」に行って、あーだこーだと思ったことをただ書き連ねる。「あーそうだったの!」で、読んでいる方もお終い。発展性がない。
作家・辻井のものは、五木本に近い。ただし書かれている内容に社会性がある。「あーそーなの?」で終わることは終わるのだが、訪問した「古寺」に新鮮さがある。先ほどの摩訶耶寺とか大福寺、福井県小浜の明通寺、正法寺、羽賀寺、滋賀県長浜市の神照寺、総持寺、高島市の大善寺、岐阜県揖斐郡の華厳寺、横蔵寺など、私が未だ訪問したことのない「古寺」が並ぶ。
東北地方の「古寺」もある。宮城県の瑞厳寺、福島県河沼郡の惠隆寺、勝常寺、岩手県奥州市の正法寺、黒石寺など。これらの「古寺」は無事であったろうか。
私は京都にある寺も訪ねるが、近江にある「古寺」の方が好きだ。京都のは、知恩院にしても東本願寺にしても巨大すぎる。巡礼者を睥睨しているかのようだ。しかし近江にある「古寺」は、いずれも視線が柔らかである。威圧感がない。本来仏教というのはそういうものでなければならない。
先日墓参に行った。私の菩提寺は遠江四十九薬師霊場の一つとなっているため、40人くらいの「善男善女」の方々が参詣に来ていた。お年を召された方々が多かった。長寿や家内安全、無病息災などをお祈りするのだろう。
日本の仏教というものは、こういうものでなければならない。迷える衆生の傍らにそっと寄り添い、死後の安心を支えるというような。
仏道に生きる者は、現世で信者から高額なカネを請求してはならぬ。そのような者は、地獄に落ちよ!と言いたい。私の菩提寺は住職がいない。近くの坊主が兼職しているが、その坊主はカネの亡者である。