民主主義社会には、表現の自由がある。今回の福島原発の事故のように、マスメディアが原発推進政策の片棒を担いでいる時、新聞やテレビには“脱原発”や“反原発”を主張する学者や市民などの姿は出てこない。とくにテレビは途轍もなくひどい状態だ。
そういう時、市民には自分たちの考えを市民に訴えるデモンストレーションやパレードというものがある。自分たちはこう考える、ということを、大きな声で叫んだりプラカードに書いたりして訴えるのだ。
お金のない人びとは、こういうかたちで自らの考えを社会に訴える。これは憲法上の表現の自由のひとつだ(21条)。ボクがこの集会に参加しようと会場の近くを歩いているとき、女子高校生が「これってデモだよね、危険だよね!」などと話していた。日本国憲法の自由と権利についての理解がない高校生がいることに驚いた。
ボクがこの集会とデモに参加しようとしたのは、世界でもっとも危険だといわれている浜岡原発、もしその原発が東海大地震で破壊され爆発でもしたら、ボクたちは今いるところから避難しなければならないし、同時に東京などの首都圏にも放射能雲がかかり、日本の終わりを見たくないと思ったこと、市民がこのデモを企画するという話を知った時、静岡に住むボクたちがたくさん、たくさん参加して、市民は浜岡原発が危ないと思っている、そういう人たちがこんなにもたくさんいるのだよ、ということを示すべきだと思ったからだ。
だから浜松から参加した。東海道線の往復は、鈍行で約2500円。それだけのお金をつかっても訴えるべきだと思った。
でも参加者は約800人だという。もっともっと多くの人に参加して欲しかった。民主主義というのは、市民一人一人がみずからの考えを表現するところから始まる。ボクは民主主義社会を維持すべきだと思うし、民主主義者(デモクラット)として動くべき時は動かなければならないと思っている。中には、かっこいいことを言っていても実際には口だけという人もいる(有言不実行)。そういう人はデモクラットとはいえないとボクは思う。
丸山眞男という政治学者がいた。ボクは高校の時に彼の“「である」ことと「する」こと”という論文を読んだ。それは岩波新書の『日本の思想』に収載されている(この『日本の思想』を読んでいない人は、学ぶということをしていない人だ)。そこにこうある。
「自由は置き物のようにそこにあるのではなく、現実の行使によってだけ守られる、いいかえれば日々自由になろうとすることによって、はじめて自由でありうるということなのです。」
「民主主義というものは、人民が本来制度の自己目的化ー物神化ーを不断に警戒し、制度の現実の働き方を絶えず監視し批判する姿勢によって、はじめて生きたものとなり得るのです。」
「民主主義はやや逆説的な表現になりますが、非政治的な市民の政治的関心によって、また「政界」以外の領域からの政治的発言と行動によってはじめて支えられるといっても過言ではないのです。」
ボクは高校生の時に読んだこの論文で、民主主義と自分自身の関係、相互の在り方についての認識を得た。おそらく同じような認識を持った人びとは多いことだろう。
今日本は様々な矛盾を抱えている。今回の原発被害の補償を、政府や東電などは、国民の電気料金や税金(消費税の増税!!)でまかなおうという計画を立てつつあるようだ。事故を起こした東電を免責するような方針をとらせてはならないと、ボクは思う。でも、そういう声を表に出していかないと、政府の計画はそのまま通過して現実化されてしまう。
ボクは原発はとてもとても危険だと思う。福島原発で避難を余儀なくされている人びとは、明日の私たちだ。声をあげることが必要だ。声を出さないで、その「明日」がきたとき涙に暮れるのだろうか。仕方がないとうなだれるのだろうか。
ボクは、いやだ。予見できる、あってはならないことを現実のものにしてはならない。
集会の写真を掲げる。クリックすると大きくなる。
なお東京でも行われた。http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2011042401000511.html
そういう時、市民には自分たちの考えを市民に訴えるデモンストレーションやパレードというものがある。自分たちはこう考える、ということを、大きな声で叫んだりプラカードに書いたりして訴えるのだ。
お金のない人びとは、こういうかたちで自らの考えを社会に訴える。これは憲法上の表現の自由のひとつだ(21条)。ボクがこの集会に参加しようと会場の近くを歩いているとき、女子高校生が「これってデモだよね、危険だよね!」などと話していた。日本国憲法の自由と権利についての理解がない高校生がいることに驚いた。
ボクがこの集会とデモに参加しようとしたのは、世界でもっとも危険だといわれている浜岡原発、もしその原発が東海大地震で破壊され爆発でもしたら、ボクたちは今いるところから避難しなければならないし、同時に東京などの首都圏にも放射能雲がかかり、日本の終わりを見たくないと思ったこと、市民がこのデモを企画するという話を知った時、静岡に住むボクたちがたくさん、たくさん参加して、市民は浜岡原発が危ないと思っている、そういう人たちがこんなにもたくさんいるのだよ、ということを示すべきだと思ったからだ。
だから浜松から参加した。東海道線の往復は、鈍行で約2500円。それだけのお金をつかっても訴えるべきだと思った。
でも参加者は約800人だという。もっともっと多くの人に参加して欲しかった。民主主義というのは、市民一人一人がみずからの考えを表現するところから始まる。ボクは民主主義社会を維持すべきだと思うし、民主主義者(デモクラット)として動くべき時は動かなければならないと思っている。中には、かっこいいことを言っていても実際には口だけという人もいる(有言不実行)。そういう人はデモクラットとはいえないとボクは思う。
丸山眞男という政治学者がいた。ボクは高校の時に彼の“「である」ことと「する」こと”という論文を読んだ。それは岩波新書の『日本の思想』に収載されている(この『日本の思想』を読んでいない人は、学ぶということをしていない人だ)。そこにこうある。
「自由は置き物のようにそこにあるのではなく、現実の行使によってだけ守られる、いいかえれば日々自由になろうとすることによって、はじめて自由でありうるということなのです。」
「民主主義というものは、人民が本来制度の自己目的化ー物神化ーを不断に警戒し、制度の現実の働き方を絶えず監視し批判する姿勢によって、はじめて生きたものとなり得るのです。」
「民主主義はやや逆説的な表現になりますが、非政治的な市民の政治的関心によって、また「政界」以外の領域からの政治的発言と行動によってはじめて支えられるといっても過言ではないのです。」
ボクは高校生の時に読んだこの論文で、民主主義と自分自身の関係、相互の在り方についての認識を得た。おそらく同じような認識を持った人びとは多いことだろう。
今日本は様々な矛盾を抱えている。今回の原発被害の補償を、政府や東電などは、国民の電気料金や税金(消費税の増税!!)でまかなおうという計画を立てつつあるようだ。事故を起こした東電を免責するような方針をとらせてはならないと、ボクは思う。でも、そういう声を表に出していかないと、政府の計画はそのまま通過して現実化されてしまう。
ボクは原発はとてもとても危険だと思う。福島原発で避難を余儀なくされている人びとは、明日の私たちだ。声をあげることが必要だ。声を出さないで、その「明日」がきたとき涙に暮れるのだろうか。仕方がないとうなだれるのだろうか。
ボクは、いやだ。予見できる、あってはならないことを現実のものにしてはならない。
集会の写真を掲げる。クリックすると大きくなる。
なお東京でも行われた。http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2011042401000511.html