今日は暖かい日でした。花壇にも、白や黄色の花が増えてきています。自然は、確実に春へとボクたちを運んでいます。
図書館で、『ネット・バカ』(青土社)という本を借りてきました。ニコラス・G・カーというアメリカ人が書いたものです。副題は「インターネットがわたしたちの脳にしていること」です。
今では、ほとんどの人がコンピュータ機能を持った端末をもって、それを利用しています。ボクも、インターネットをつかい、原稿もコンピュータの画面を見ながら打ち込んでいます。ワープロソフトは、「一太郎がいいよ」なんて助言しながら、もう原稿は「書く」ではなくキーボードを「打つ」ことによって綴られていきます。
しかしあるとき、これでよいのだろうかと思い始め、人との連絡は、できるだけメールではなく、絵はがきにしようと思い、それを実践しています。ボクはたくさんの絵はがきを買い、あるいは自分が写した写真を絵はがきにプリントして(このときはコンピュータを使います)、そして50円切手(通常切手ではありません)をたくさん用意して、折に触れて絵はがきを出します。
「書く」という行為を忘れないようにしたいのです。
また検索する時も、インターネット、Googleを使います。とはいっても、Wikipediaはみることはありますが、基本的には使いません。記述されている内容の出典も明確ではなく、信用できないからです。だから、ボクが何らかの文を書く時には、必ず「本」で調べます。
先ほどの『ネット・バカ』をぱらぱらとみていたら、「ウェブ使用率が高い者ほど、長い文章に集中するのがたいへんだ」、「読む力と集中力」が衰えている、というのです。
「読書離れ」が既定事実となっていますが、これもコンピュータの仕業でしょうか。
ボクはまだまだ長文を読むことができるし、読まなければならないことをしているし、集中力もにぶってはいないと思っています。
読むということと、書くということは、とても大切なことだと思います。バラバラにされた情報ではなく、がっちりとした知識をみずからの「知」として血肉化し、それを練り上げて、自らの思考や研究の結果として「書く」。
人間にとって大切なことが妨げられないように、コンピュータは「適度」でなければならないと思います。
図書館で、『ネット・バカ』(青土社)という本を借りてきました。ニコラス・G・カーというアメリカ人が書いたものです。副題は「インターネットがわたしたちの脳にしていること」です。
今では、ほとんどの人がコンピュータ機能を持った端末をもって、それを利用しています。ボクも、インターネットをつかい、原稿もコンピュータの画面を見ながら打ち込んでいます。ワープロソフトは、「一太郎がいいよ」なんて助言しながら、もう原稿は「書く」ではなくキーボードを「打つ」ことによって綴られていきます。
しかしあるとき、これでよいのだろうかと思い始め、人との連絡は、できるだけメールではなく、絵はがきにしようと思い、それを実践しています。ボクはたくさんの絵はがきを買い、あるいは自分が写した写真を絵はがきにプリントして(このときはコンピュータを使います)、そして50円切手(通常切手ではありません)をたくさん用意して、折に触れて絵はがきを出します。
「書く」という行為を忘れないようにしたいのです。
また検索する時も、インターネット、Googleを使います。とはいっても、Wikipediaはみることはありますが、基本的には使いません。記述されている内容の出典も明確ではなく、信用できないからです。だから、ボクが何らかの文を書く時には、必ず「本」で調べます。
先ほどの『ネット・バカ』をぱらぱらとみていたら、「ウェブ使用率が高い者ほど、長い文章に集中するのがたいへんだ」、「読む力と集中力」が衰えている、というのです。
「読書離れ」が既定事実となっていますが、これもコンピュータの仕業でしょうか。
ボクはまだまだ長文を読むことができるし、読まなければならないことをしているし、集中力もにぶってはいないと思っています。
読むということと、書くということは、とても大切なことだと思います。バラバラにされた情報ではなく、がっちりとした知識をみずからの「知」として血肉化し、それを練り上げて、自らの思考や研究の結果として「書く」。
人間にとって大切なことが妨げられないように、コンピュータは「適度」でなければならないと思います。