隣家のご主人が亡くなられた。ボクは、通夜と葬儀にずっと参列した。もうかなり長い間、癌を患っていた。家で死にたい、という願望の通り、自宅で死を迎えた。
通夜の時、亡くなられたご主人の遺体が布団に包まれていた。あたかも眠っているかのように、静かに静かに、何かを沈思黙考されているような感じだった。
そして昨日、遺体はやかれ、骨になった。
ボクたち人間は、必ず死を迎え、骨と化す。生まれ、生き、そして死ぬ。そのサイクルは、皆が体験する。しかし死は、現世との完全な断絶となる。
ボクは高校一年生のころ、死についてよく考えた。父が早く亡くなっていたからかもしれない。いずれ必ずボクは死ぬ、しかしボクがいなくなっても、世界はそのまま続いていく。もちろん、ボクが生まれる前にも、「世界」は存在し、ボクとまったく関わり合いを持たずに、「世界」は時を刻んでいた。だから、「世界」は、ボクという存在を一時的に包含し、そして一定の時が経過すれば放り出す・・・
ならばなぜ、ボクはこの「世界」に出現したのか。「世界」はボクという存在がなくてもまったく平気でいる。ボクという存在が出現し、そして80年程度で消えてなくなる。なぜボクは、そういう冷酷な「世界」に生まれてきてしまったのか。なぜ、なぜ・・・・・・?
どうせ「世界」から放り出されるなら、とっとと死んでしまえばいい。そうも考えた。なぜボクの周囲に存在する人々は、平気で生きていられるのだろうか。ボクは、ひたすらその解を得ようと、哲学書や文学を手当たり次第に読んだ。
亀井勝一郎の本のなかに、「悔いなき死」ということばがあった。その頃、死を照準にした思考はファシズムだ、という本も読んだ。生まれてきた以上、やはり「悔いなき死」を迎えたい、そう思った。「悔いなき死」を迎えるには、どうしたらよいのだろうか。「悔いなき生」ということを考えた。いや、その本にそういう記述があったのかもしれない。死ぬ時に、「悔いなき死」を迎えるためには、「悔いなき生」を生きなければならない。生は、死へと向かって生き続けることだから。
では「悔いなき生」を生きるためには、どうしたらいいのだろうか。そんなとき、ベトナム戦争で傷ついた少女の上半身の写真をみた。ナパーム弾で、焼けただれていた。
ああ、ボクは「悔いなき生」をなどと考えている時、ベトナムでは米軍の爆撃の下で生きるために逃げ惑っている。何という落差。
ボクは、その時、考えた。この「落差」を埋めることができなければ、ボクはそのベトナムの少女と「生と死」について語りあえない。ボクは、机の前に座りながら、またバスに乗りながら、あるいは庭を眺めながら「生と死」をアードコーダと考えるのを中断し、その「落差」を埋めるように生きることが求められているのだと思った。
それからボクは、ベトナム戦争反対の運動に関わるようになった。「悔いなき生」というのは、自分自身のためだけに生きるのではなく、「世のため、人のため」に生きることなのではないか。
自分のためだけに生きていくのは、むなしい。
ボクは、葬儀場で、遺影をみつめながら、「あなたもそうした生き方をしていましたね」と心の中で語りかけた。
いつか、ボクが誰かに語りかけられるのだろう、「あなたは・・・・」と。
通夜の時、亡くなられたご主人の遺体が布団に包まれていた。あたかも眠っているかのように、静かに静かに、何かを沈思黙考されているような感じだった。
そして昨日、遺体はやかれ、骨になった。
ボクたち人間は、必ず死を迎え、骨と化す。生まれ、生き、そして死ぬ。そのサイクルは、皆が体験する。しかし死は、現世との完全な断絶となる。
ボクは高校一年生のころ、死についてよく考えた。父が早く亡くなっていたからかもしれない。いずれ必ずボクは死ぬ、しかしボクがいなくなっても、世界はそのまま続いていく。もちろん、ボクが生まれる前にも、「世界」は存在し、ボクとまったく関わり合いを持たずに、「世界」は時を刻んでいた。だから、「世界」は、ボクという存在を一時的に包含し、そして一定の時が経過すれば放り出す・・・
ならばなぜ、ボクはこの「世界」に出現したのか。「世界」はボクという存在がなくてもまったく平気でいる。ボクという存在が出現し、そして80年程度で消えてなくなる。なぜボクは、そういう冷酷な「世界」に生まれてきてしまったのか。なぜ、なぜ・・・・・・?
どうせ「世界」から放り出されるなら、とっとと死んでしまえばいい。そうも考えた。なぜボクの周囲に存在する人々は、平気で生きていられるのだろうか。ボクは、ひたすらその解を得ようと、哲学書や文学を手当たり次第に読んだ。
亀井勝一郎の本のなかに、「悔いなき死」ということばがあった。その頃、死を照準にした思考はファシズムだ、という本も読んだ。生まれてきた以上、やはり「悔いなき死」を迎えたい、そう思った。「悔いなき死」を迎えるには、どうしたらよいのだろうか。「悔いなき生」ということを考えた。いや、その本にそういう記述があったのかもしれない。死ぬ時に、「悔いなき死」を迎えるためには、「悔いなき生」を生きなければならない。生は、死へと向かって生き続けることだから。
では「悔いなき生」を生きるためには、どうしたらいいのだろうか。そんなとき、ベトナム戦争で傷ついた少女の上半身の写真をみた。ナパーム弾で、焼けただれていた。
ああ、ボクは「悔いなき生」をなどと考えている時、ベトナムでは米軍の爆撃の下で生きるために逃げ惑っている。何という落差。
ボクは、その時、考えた。この「落差」を埋めることができなければ、ボクはそのベトナムの少女と「生と死」について語りあえない。ボクは、机の前に座りながら、またバスに乗りながら、あるいは庭を眺めながら「生と死」をアードコーダと考えるのを中断し、その「落差」を埋めるように生きることが求められているのだと思った。
それからボクは、ベトナム戦争反対の運動に関わるようになった。「悔いなき生」というのは、自分自身のためだけに生きるのではなく、「世のため、人のため」に生きることなのではないか。
自分のためだけに生きていくのは、むなしい。
ボクは、葬儀場で、遺影をみつめながら、「あなたもそうした生き方をしていましたね」と心の中で語りかけた。
いつか、ボクが誰かに語りかけられるのだろう、「あなたは・・・・」と。