浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

教えられること

2013-03-09 19:56:07 | 日記
 年齢を重ねても、次々と教えられること、新しい発見がある。ボクはまだまだ未熟であることを痛感する。

 いくつかのブログを読んでいて、ハッとさせられることがある。たとえばこの詩だ。作者は、神奈川県横須賀市の真宗大谷派長願寺の住職、海法龍(かい・ほうりゅう)さん(1957年、熊本県天草市の生まれ)。

  忘却の悲しみ

 過去を忘れ
 未来を忘れ
 今、生きていることを忘れ
 存在の重さ深さ尊さを忘れ
 忘れてはならないことを忘れる

 同じ過ちを繰り返す悲しみ
 これからの子どもたちの悲しみ
 目先の利益だけで生きる悲しみ
 存在を軽く浅く卑しくしている悲しみ
 悲しみを生み出してきた悲しみ

 人間であることを忘れた悲しみ
 広島・長崎の酷さ
 水俣の苦渋
 福島の呻き
 時計の針はそんなに動いていないのに
 忘却の彼方へ追いやられる

 国策の果てに辿り着いた今
 加害者を作り被害者を作る
 みんな仲間なのに傷つけ合う
 これが行きたかった場所なのか
 何かが違う


『Prati プラ・ティ』(2012 Vol.9)という東本願寺真宗会館(東京都練馬区谷原1丁目)の情報誌に掲載されていたものだそうだ。

 そしてもう一つ。望田幸男というドイツ現代史専攻の学者の言葉。ナチスの政治権力掌握について、

「ドイツ国民は『食えない民主主義』(ワイマール体制)よりも『食える独裁』(ナチス体制)を選んだ」

  ワイマール体制は、憲法上にはじめて生存権を規定した民主的な政権だった。しかし、ドイツ国民は、ナチスにより多く投票した。

 ボクはいつも思う、人は理念に生きることはしない、とりあえず、カネである、と。

 自公両党に投票した人びとと、1930年代のドイツ国民とが重なってしまう。

 
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相対化

2013-03-09 16:45:17 | 日記
 新しく生まれてくる人びとは、自分自身が生まれた環境(自然環境、社会環境などすべて)を所与のものとして、それを前提に生きていく。まわりの環境をすべて受け容れることによってしか生きられない、ということでもある。

 となると、その環境を批判することはなかなか難しくなる。自己を存立させている基盤を疑うということでもあるからだ。

 しかし一定の年齢になると、精神的自立の時期が必ず訪れてくる。自立していくためには、相対化が必要だ。他者(まさに他人、友人、メディアからの情報など)との無数の遭遇のなかで、自分自身を相対化する、あるいは自己を存立させている基盤をも相対化する。

 その時、相対化の波が、どこまで及ぶのか。自分自身、家族、学校、地域、政府・・・そして政治や経済。

 その相対化の波がどこまで及ぶのかは、時代に依存するようだ。最近は、相対化の波が狭い範囲、自分自身が直接関わる範囲で止まっている。もちろん考えようによっては政治は直接関わる分野ではあるが、そこまではとても及ばない。

 自己を存立させている基盤に絶対的信頼をもち、その基盤を相対化し変革しようとする傾向には眉をひそめ、生理的に拒否反応を示す。とくにそれはインターネット世界で激しい。

 同時に、一定の学歴を経た者にもそのような傾向を感じる。最近ボクに問い合わせしてきた、イギリスの大学院にいる若者のメールに、それを強く感じた。

 ボクは、今それについて考え始めている。
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