今、赤坂真理の『東京プリズン』(河出書房新社)を読んでいる。
そしてバックを流れている音楽は、チャイコフスキーの第六番「悲愴」だ。
音楽は、ほとんど音符で示される。音符の数なんて、そんなに多くはない。なのに、それぞれ異なった音楽が創作される。あたかもバイオリンの音色が自由に空間をたゆたうように、シベリウスのバイオリンコンチェルトのバイオリンが、孤独な響きの弧を描くように、音は自由に空間と時間のなかを進む。その音は、ボクたちを置き去りにしながら進んでいく、だからボクたちは少し遅れてその音の後をついていく。
赤坂真理という作家の小説を、はじめて読む。文字というものが、音符と同じように、かくも自由な表現を獲得できるものなのか。ボクは、赤坂が文字で描いた時空を超えた世界に招き入れられ、そのある種不思議な世界を体験する。
いったい読者をどこに連れて行くのだろうか。シベリウスのバイオリンコンチェルトを聴いている時に感じる、バイオリンの音色の後をそっとついていくような、いやついていくのではなく、その音色に連れて行かれるような、そんな気がする。
村上春樹の作品にみられるような、へんな作為はなく、自然に導かれていく。ボクにとっては、赤坂の表現は、自然な曲線なのだ。村上のそれは、曲線もあるが、ところどころ折れ曲がったような不自然な構築物とでもいうようなものだ。
長い間、小説世界に入り込まなかった。仕事を辞めて、その世界に入り込む時間ができた。
ボクにとっては、奥田英朗の小説にもっとも馴染むことができる。村上の世界は、作為と不自然の暗闇の中を歩かされるような感じ。
赤坂のそれは、母胎の中のゆるりとした安心できる空間。母胎のなかは、無限の過去と無限の未来が交錯するところだ。だから、時空を超え、自由な表現に身を任せながらついていくことができるのだ。
しかし、この小説の表題は、prisonだ。ボクは、捕らえられているのだろうか。
読了。
小説が、ノンフィクションではなく、フィクションの手法を使って、「東京裁判」を描くことができたということは、すごいことだと思う。だが、歴史関係者の一人として、その認識がきちんとした事実認識をもとにしたものではないという気がした。フィクションの中に、学びとったものをみずからの感覚のなかに溶けあわせることによってつくりあげた「東京裁判」の像は、あまりに俗的である。俗的というのは、事実認識を踏まえないで判断を加えるピープルの一員の感覚的認識の鏡像であるということだ。つまり、この21世紀に漂泊する「民意」にそのまま乗って、さらなる漂泊を続けようとするような像であると判断せざるを得ない。
小説上の工夫や表現力と、そのなかにこめられたある種の「主張」に大きな落差を感じた。
そしてバックを流れている音楽は、チャイコフスキーの第六番「悲愴」だ。
音楽は、ほとんど音符で示される。音符の数なんて、そんなに多くはない。なのに、それぞれ異なった音楽が創作される。あたかもバイオリンの音色が自由に空間をたゆたうように、シベリウスのバイオリンコンチェルトのバイオリンが、孤独な響きの弧を描くように、音は自由に空間と時間のなかを進む。その音は、ボクたちを置き去りにしながら進んでいく、だからボクたちは少し遅れてその音の後をついていく。
赤坂真理という作家の小説を、はじめて読む。文字というものが、音符と同じように、かくも自由な表現を獲得できるものなのか。ボクは、赤坂が文字で描いた時空を超えた世界に招き入れられ、そのある種不思議な世界を体験する。
いったい読者をどこに連れて行くのだろうか。シベリウスのバイオリンコンチェルトを聴いている時に感じる、バイオリンの音色の後をそっとついていくような、いやついていくのではなく、その音色に連れて行かれるような、そんな気がする。
村上春樹の作品にみられるような、へんな作為はなく、自然に導かれていく。ボクにとっては、赤坂の表現は、自然な曲線なのだ。村上のそれは、曲線もあるが、ところどころ折れ曲がったような不自然な構築物とでもいうようなものだ。
長い間、小説世界に入り込まなかった。仕事を辞めて、その世界に入り込む時間ができた。
ボクにとっては、奥田英朗の小説にもっとも馴染むことができる。村上の世界は、作為と不自然の暗闇の中を歩かされるような感じ。
赤坂のそれは、母胎の中のゆるりとした安心できる空間。母胎のなかは、無限の過去と無限の未来が交錯するところだ。だから、時空を超え、自由な表現に身を任せながらついていくことができるのだ。
しかし、この小説の表題は、prisonだ。ボクは、捕らえられているのだろうか。
読了。
小説が、ノンフィクションではなく、フィクションの手法を使って、「東京裁判」を描くことができたということは、すごいことだと思う。だが、歴史関係者の一人として、その認識がきちんとした事実認識をもとにしたものではないという気がした。フィクションの中に、学びとったものをみずからの感覚のなかに溶けあわせることによってつくりあげた「東京裁判」の像は、あまりに俗的である。俗的というのは、事実認識を踏まえないで判断を加えるピープルの一員の感覚的認識の鏡像であるということだ。つまり、この21世紀に漂泊する「民意」にそのまま乗って、さらなる漂泊を続けようとするような像であると判断せざるを得ない。
小説上の工夫や表現力と、そのなかにこめられたある種の「主張」に大きな落差を感じた。