昨年11月4日、近所の男性が車でわが家に飛び込んできた。アクセルとブレーキを踏み間違えたそうだ。外壁、雨樋、2階のトイレのパイプが破損した。85パーセントほどは修理されたが、雨樋は同じものがないということで、私からみれば無様な格好になったままになっている。
加害者の男性は、翌日から他の車を乗り、一週間後には修理した車に乗っている。しかし、この男性、謝罪することはなく、保険会社に依頼しているからと一言言ったきりである。
最初から私は保険会社に、示談は元通りになったら考えると言っている。
今年2月、保険会社から失礼な手紙が来た。
平成29年11月4日の事故に関しまして、有限会社〇〇様より、現時点での外壁補修および排水管修繕費用は233,712円と伺っております。
弊社としましては上記作業により、機能上の復旧は完了したものと考えており、全ての雨樋を取替するというご要望につきましては、貴意に添いかねるところでございます。
しかしながら雨樋の補修部品の供給が無い点を踏まえますと、美観上の復旧が一部不十分であると考え得ることから、上記金額の他に50000円をお支払いさせていただくという内容の解決案をご提示いたしますので、ご検討下さいますようお願い申し上げます。
前述したように、私はとにかく元通りにして欲しい、と最初から言っている。しかし雨樋については同じものがない、したがって、確かに機能的には復旧しているが、美観上はまったく承服できるようにはなっていない。雨樋すべてをかえてくれるなら我慢も出来るが・・・と言っていたのだが。
元通りに出来ないなら、こういうかたちではいかがかと相談があっても良いものだが、そうしたこともなく、こういう文書を送ってきたのだ。だいたい23万余円かかろうがかかるまいが、私には関係のないことだ。あたかも、すでに23万円ほどかかっているのだから、美観上ぶざまなままで、あと5万円払うからそれで示談にして欲しい、などとよくいえるものだ。失礼この上ない。
こういう一方的な通告に、私は無視を決め込んでいる。3月にも、ほぼ同じような文面の手紙が届いた。これも無視。
どうしたらよいのでしょうか・・・という保険会社からの相談があってもいいものだが、ない。
この保険会社、共栄火災海上保険株式会社である。
もし同じことが起きて、相手の保険会社がこの会社なら、この会社は相手にしない。加害者と話をつけることになるだろう。
加害者の男性は、翌日から他の車を乗り、一週間後には修理した車に乗っている。しかし、この男性、謝罪することはなく、保険会社に依頼しているからと一言言ったきりである。
最初から私は保険会社に、示談は元通りになったら考えると言っている。
今年2月、保険会社から失礼な手紙が来た。
平成29年11月4日の事故に関しまして、有限会社〇〇様より、現時点での外壁補修および排水管修繕費用は233,712円と伺っております。
弊社としましては上記作業により、機能上の復旧は完了したものと考えており、全ての雨樋を取替するというご要望につきましては、貴意に添いかねるところでございます。
しかしながら雨樋の補修部品の供給が無い点を踏まえますと、美観上の復旧が一部不十分であると考え得ることから、上記金額の他に50000円をお支払いさせていただくという内容の解決案をご提示いたしますので、ご検討下さいますようお願い申し上げます。
前述したように、私はとにかく元通りにして欲しい、と最初から言っている。しかし雨樋については同じものがない、したがって、確かに機能的には復旧しているが、美観上はまったく承服できるようにはなっていない。雨樋すべてをかえてくれるなら我慢も出来るが・・・と言っていたのだが。
元通りに出来ないなら、こういうかたちではいかがかと相談があっても良いものだが、そうしたこともなく、こういう文書を送ってきたのだ。だいたい23万余円かかろうがかかるまいが、私には関係のないことだ。あたかも、すでに23万円ほどかかっているのだから、美観上ぶざまなままで、あと5万円払うからそれで示談にして欲しい、などとよくいえるものだ。失礼この上ない。
こういう一方的な通告に、私は無視を決め込んでいる。3月にも、ほぼ同じような文面の手紙が届いた。これも無視。
どうしたらよいのでしょうか・・・という保険会社からの相談があってもいいものだが、ない。
この保険会社、共栄火災海上保険株式会社である。
もし同じことが起きて、相手の保険会社がこの会社なら、この会社は相手にしない。加害者と話をつけることになるだろう。
どう書いたらわかってもらえるだろうか、それが私が文を書く動機となっている。つまり、伝えたいものがあるから、そのためにはどう書いたらよいのか、という問題意識である。
今日『Journalism』4月号が届いた。そこに朝日新聞「天声人語」を担当していた福島申二さんの「言葉をしなやかに使い 読み手に伝える 記事に浸透力を持たせる表現の工夫を」が掲載されている(『Journalism』の文は、それぞれ長い表題を持つのが特徴である)。
斎藤実奈子さんの『文章読本さん江』(ちくま文庫)にならって、文を伝達の文章と表現の文章に分けているが、私の文は伝達の文章である。若い頃、「文章読本」的な内容のものを何冊も読んだが、私にとってもっともフィットしたのが、本多勝一の『日本語の作文技術』である。本多さんはもと朝日新聞の記者であるから、当然伝達の文章をどう書くかという視点から書かれたものである。私は、本多さんの文章術が、もっともわかりやすい文の書き方だと思い、意識的にそういう文を書いてきた。
私の文は、福島さんのこの文に書かれているように、「無味無臭で透明」、「短く、簡潔に」、複文はあまり使わずに単文で書いていく。まさに新聞の文章というわけである。
そして文を読んだ人に余韻を残すために、書き終えた後に最後の一文を削る。すると、文章が完結しないで宙ぶらりんのままになる。それがある意味、余韻となる。
また余韻を残すために、最後の一文をくわえることがある。しかしこれはあまり評判が良くない。某自治体史でそれをしたところ、からかわれたことがあり、深く自戒するところである。
福島さんの文に紹介されている、長谷川櫂さんの文章の書き出し、うまいなあ、唸る文である。金子兜太さんの死を悼んで書かれたものだ。
春の寒さに耐えかねるように大樹が音をたてて倒れる。その残響の谺に耳を傾けながら、この文を書いている。
こういう文を書いてみたい。でも無理だろう。
私は職業柄、歴史の文を書くことが多い。基本的に過去形である。放っておくと、「・・・た。」が続いてしまう。それをどう防ぐか。途中に「・・たのである。」、「・・・といえよう。」などをつかい、また基本的に単文を並べてはいくが、その単文に説明内容を多く入れ、「・・・・た。」の多用に煙幕をはるのだ。短い単文を並べ、その文のほとんどが「・・・た。」となると、「・・・た。」が目立ってしまうからだ。
しかしどういう文を書くかについて意識しない人もいる。読み手のことを考えると、やはり文を書くときには意識的でないといけないと思う。
文章を書くことに意を用いることは必要だ。
新聞の文章は、「歌うな、語れ」だそうだが、私は「歌いながら、語る」、そういう文を書いてみたい。
今日『Journalism』4月号が届いた。そこに朝日新聞「天声人語」を担当していた福島申二さんの「言葉をしなやかに使い 読み手に伝える 記事に浸透力を持たせる表現の工夫を」が掲載されている(『Journalism』の文は、それぞれ長い表題を持つのが特徴である)。
斎藤実奈子さんの『文章読本さん江』(ちくま文庫)にならって、文を伝達の文章と表現の文章に分けているが、私の文は伝達の文章である。若い頃、「文章読本」的な内容のものを何冊も読んだが、私にとってもっともフィットしたのが、本多勝一の『日本語の作文技術』である。本多さんはもと朝日新聞の記者であるから、当然伝達の文章をどう書くかという視点から書かれたものである。私は、本多さんの文章術が、もっともわかりやすい文の書き方だと思い、意識的にそういう文を書いてきた。
私の文は、福島さんのこの文に書かれているように、「無味無臭で透明」、「短く、簡潔に」、複文はあまり使わずに単文で書いていく。まさに新聞の文章というわけである。
そして文を読んだ人に余韻を残すために、書き終えた後に最後の一文を削る。すると、文章が完結しないで宙ぶらりんのままになる。それがある意味、余韻となる。
また余韻を残すために、最後の一文をくわえることがある。しかしこれはあまり評判が良くない。某自治体史でそれをしたところ、からかわれたことがあり、深く自戒するところである。
福島さんの文に紹介されている、長谷川櫂さんの文章の書き出し、うまいなあ、唸る文である。金子兜太さんの死を悼んで書かれたものだ。
春の寒さに耐えかねるように大樹が音をたてて倒れる。その残響の谺に耳を傾けながら、この文を書いている。
こういう文を書いてみたい。でも無理だろう。
私は職業柄、歴史の文を書くことが多い。基本的に過去形である。放っておくと、「・・・た。」が続いてしまう。それをどう防ぐか。途中に「・・たのである。」、「・・・といえよう。」などをつかい、また基本的に単文を並べてはいくが、その単文に説明内容を多く入れ、「・・・・た。」の多用に煙幕をはるのだ。短い単文を並べ、その文のほとんどが「・・・た。」となると、「・・・た。」が目立ってしまうからだ。
しかしどういう文を書くかについて意識しない人もいる。読み手のことを考えると、やはり文を書くときには意識的でないといけないと思う。
文章を書くことに意を用いることは必要だ。
新聞の文章は、「歌うな、語れ」だそうだが、私は「歌いながら、語る」、そういう文を書いてみたい。