この本、岩波新書で最初出版された。そのとき購入して読んだことがあるのだが、どこにいったか見つからない。仕方なく図書館で借りて、もう一度読んでみた。二度目ということで新鮮味はなかったが、いくつかの示唆は得ることが出来た。
本書は、地方官庁や学校に分与された「御真影」の意味を考えるというものであるが、それに派生して「見る・見られる」の関係などについて論じたものである。
近代国家を建設するに際し、その中心におかれた君主は、「見られる」ものにするという努力がなされた。それについては各書で指摘されているが、君主が「見られる」ということは、君主の側も「見る」ということであり、同時に被支配層が君主に「見られる」ということでもある。「見られる」被支配層は、「見られる」存在としての態度をつくりあげなければならないということでもある。
「御真影」は、それを配付するなかで、「忠君」の競争をさせ、そうした心性や態度をつくりあげていった。
読んでおくべき本である。
本書は、地方官庁や学校に分与された「御真影」の意味を考えるというものであるが、それに派生して「見る・見られる」の関係などについて論じたものである。
近代国家を建設するに際し、その中心におかれた君主は、「見られる」ものにするという努力がなされた。それについては各書で指摘されているが、君主が「見られる」ということは、君主の側も「見る」ということであり、同時に被支配層が君主に「見られる」ということでもある。「見られる」被支配層は、「見られる」存在としての態度をつくりあげなければならないということでもある。
「御真影」は、それを配付するなかで、「忠君」の競争をさせ、そうした心性や態度をつくりあげていった。
読んでおくべき本である。