浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

怒りをまねくニュース

2018-04-06 16:16:51 | その他
 今、『東京新聞』(統合版)が届いた。第一面は、驚愕のニュース。

 東電、他社原発を支援/東海第2再稼働へ資金

 原発事故を起こした東電、しかし東電だけでは被害を与えた人々への補償も、除染などもできないために、国からの支援を得ている。にもかかわらず、他社の原発に資金をまわすだって!

 東電は、まったく無反省、無責任である。ほんとうに面の皮が厚い。許せない!

 横田基地へのオスプレイの配備。横田基地付近を飛行するオスプレイの写真が載せられているが、まったく住宅がいっぱいで危険極まりない。第1社会面は、このオスプレイ横田基地配備に関する記事。全面に近い扱いである。

 まさにアメリカの属国・日本。オスプレイが、首都圏を自由に飛びまわる。アメリカの大都市の上空を飛ぶことはあるのか。あるわけない。植民地の民だから、日本人は。

 第2社会面には、福島県での除染土の不法投棄の記事。ひどい!!

 北海道経産局の「学校教育」への介入事件。官僚の奢り。とりわけ現在の安倍政権は経産省が支配しているから、経産局の鼻息が荒いということなのだろう。しかし、官僚の傍若無人の振る舞いの続出をどう考えるべきか。国民の行政に対する監視の目がゆるんでいる、ということなのだろう。

 『東京新聞』は、ほんとうに読み応えがある。『中日新聞』(東海本社版)は、ジャーナリズムではない。



 
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啄木(3)

2018-04-06 14:45:26 | その他
 明治42年

 明日になれば皆噓になる事共と知りつゝ今日も何故(なぜ)に歌よむ

 私を取り巻く現実は次々と去っていく。その現実に向かって、私は歌をよむ。歌は、現実のほんの一部を切りとったものだ。だが、現実が次々去っていくから、私がよんだ歌は、次の瞬間、噓になっていく。

 啄木にとって、歌はいのちである。おのれを愛し生きるその証しとして歌がある。歌が噓になる、ということは、みずからの生も一瞬一瞬消え去り、現実ではないものになっていくからだ。

 無常なるおのれの生を見つめ、しかしそれでも歌をよまざるを得ない。「何故」と尋ねるなかれ、歌はわが生そのものなのだから。

 明治43年

 しかし・・・・

 何よりもおのれを愛し生くといふさびしきことにあきはてにけり
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啄木(2)

2018-04-06 14:12:23 | その他
 6月に向けて、助走を始めた。

 平野謙は、『呼子と口笛』を大いに評価している。

 明治末年に近い頃、飛行機が飛んだ。それを啄木は詩にしている。

 見よ、今日も、かの蒼空に
 飛行機の高く飛べるを。
 
 給仕づとめの少年が、
 たまに非番の日曜日、
 肺病やみの母親とたつた二人の家にゐて、
 ひとりせつせとリイダアの独学をする眼の疲れ・・・

 見よ、今日もかの蒼空に、
 飛行機の高く飛べるを。
 


 飛行機は、ここでは希望である。啄木が、みずからを飛翔させようと、精一杯の力をふりしぼっているとき、飛行機が高く飛んでいた。飛行機は、啄木の上昇しようという意欲の権化ではなかったか。

 飛行機は、しかし今、希望ではない。

 先ほどまで、私の家の上空を航空自衛隊の練習機が何機も飛んでいた。騒音をまき散らし、いくさのための訓練をしている。

 私は、啄木を、政治社会のなかで読解していきたい。

 先ほど、ノートに彼の年譜を書き始めた。しかしその年数の短いこと。
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伝統

2018-04-06 07:10:53 | その他
 日本相撲協会という利権組織。しかしこうした組織は前近代にあったのだろうか。相撲興行というのが、全国単一の組織の中で行われるようになったのは、そう古いことではない。20世紀になっても、地方には相撲興行を生業とする人々がいた。

 日本相撲協会が土俵への女性への立ち入りを禁止し続けることが「伝統」であると考えるなら、それはなくすべき伝統である。どんなものでも、時代の進展のなかで正されるべきものは正されるのである。

 相撲を通して大金を集め、それを関係者にばらまく組織は、前近代にはなかったはずだ。こういうことについては伝統を伝統として守りつづけないで、公序良俗に反するような「伝統」だけをふりかざす。おかしな組織だ。

 だいたい「国技」などということばも、前近代にはなかったものだ。

 伝統をふりかざす組織や人々は、昔からのそのままを維持しているのではなく、伝統のなかから取捨選択しているはずだ。伝統というのは、時代と共に変遷を重ねている。

 信仰の山も、昔は女人禁制であったが、今では女性に開放している。当然の事だ。

 相撲だけが否定されるべき「伝統」をふりかざす。ひょっとしたら、しばしば報じられる暴力も「伝統」なのか。

 
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