東京で電車に乗ると、老いも若きもほとんどの人がスマホに見入っている。それが日常になっているようだ。
昨日も電車で静岡に行ったが、地方では東京ほどスマホに見入る人は多くはないが、若い人はほとんどがスマホ。昨日はひとりだけ新聞を読んでいる人をみた。今では希少価値である。
私の近所では、子どもの面倒を見ない母親は、いつも手にスマホを持ち、子どもではなく、スマホを見ている。若い人の犬の散歩も同様だ。犬よりスマホ。
これって異常ではないか。
『図書』5月号に「「インスタ映え」という言葉には、人目を引くことに価値を置き、他者に評価してもらって初めて安心する、極めて主体性の希薄な日常が透けて見える。ほとんどが消費されて消えていく日々。」(梨木香歩「今、『君たちはどう生きるか』」)という文章があった。
スマホに見入っている人々は、そこにある文字を「読んでいる」のだろうか。それとも「読まされている」、あるいは「見ているだけ」なのだろうか。
「読む」という行為は主体的である。
スマホに席巻される時代に生きる私は、スマホに見入る多くの人々の姿を見て、これでよいのだろうかと思う。梨木は、「世の中があまりに極単位は走るとき、必ずそのバランスを取ろうとする力も生まれてくる」と書く。
そして最後に、
「人間を信じる」、何度でも。戦後、荒れ果てた人身を目の当たりにしてなおそう呟いた、吉野氏の言葉が甦ってくる。
で文を閉じているが、吉野とは吉野源三郎である。私がもっとも敬愛する人である。吉野が書いた文章は、常に私の傍らにある。「人間を信じる」という言葉は、書名にもなっている。『人間を信じる』、岩波現代文庫である。この本にも、赤い線がところどころに引かれ、折に触れて取り出して読んでいる。
『君たちはどう生きるか』は吉野の少年少女向けの本であるが、『人間を信じる』は、私にとり、政治社会に黒い雲がかかり、人間に絶望しかけたとき、私を立ち直らせてくれる本である。
『同時代のこと』(岩波新書)と『人間を信じる』は、いつも手の届くところにある。
昨日も電車で静岡に行ったが、地方では東京ほどスマホに見入る人は多くはないが、若い人はほとんどがスマホ。昨日はひとりだけ新聞を読んでいる人をみた。今では希少価値である。
私の近所では、子どもの面倒を見ない母親は、いつも手にスマホを持ち、子どもではなく、スマホを見ている。若い人の犬の散歩も同様だ。犬よりスマホ。
これって異常ではないか。
『図書』5月号に「「インスタ映え」という言葉には、人目を引くことに価値を置き、他者に評価してもらって初めて安心する、極めて主体性の希薄な日常が透けて見える。ほとんどが消費されて消えていく日々。」(梨木香歩「今、『君たちはどう生きるか』」)という文章があった。
スマホに見入っている人々は、そこにある文字を「読んでいる」のだろうか。それとも「読まされている」、あるいは「見ているだけ」なのだろうか。
「読む」という行為は主体的である。
スマホに席巻される時代に生きる私は、スマホに見入る多くの人々の姿を見て、これでよいのだろうかと思う。梨木は、「世の中があまりに極単位は走るとき、必ずそのバランスを取ろうとする力も生まれてくる」と書く。
そして最後に、
「人間を信じる」、何度でも。戦後、荒れ果てた人身を目の当たりにしてなおそう呟いた、吉野氏の言葉が甦ってくる。
で文を閉じているが、吉野とは吉野源三郎である。私がもっとも敬愛する人である。吉野が書いた文章は、常に私の傍らにある。「人間を信じる」という言葉は、書名にもなっている。『人間を信じる』、岩波現代文庫である。この本にも、赤い線がところどころに引かれ、折に触れて取り出して読んでいる。
『君たちはどう生きるか』は吉野の少年少女向けの本であるが、『人間を信じる』は、私にとり、政治社会に黒い雲がかかり、人間に絶望しかけたとき、私を立ち直らせてくれる本である。
『同時代のこと』(岩波新書)と『人間を信じる』は、いつも手の届くところにある。