1909(明治42)年(23歳)・・・1月啄木が発行名義人の『スバル』が創刊される。3月1日東京朝日新聞社に出社(校正係)。啄木はやっときちんとした収入が入る仕事に就いた。しかし、就職する時から、給与は前借り。一度借金生活に陥ると、そこから這い上がることは難しい。
【今日は社の給料日、二十五円受取つて、そして一目見ただけで佐藤氏に返して了つた、前に借りてゐたつたので】(「明治四十二年当用日記」3月25日)
カネがない生活。電車賃がないので欠勤。
【電車賃がないので社を休む。夜二時迄“邪宗門”を読んだ。美しい、そして特色のある本だ。北原は幸福な人だ。僕も何だか詩を書きたいような心持ちになって寝た】(「明治四十二年当用日記」4月3日、原文はローマ字)
4月~6月までローマ字日記をつける。ローマ字での日記は、節子に読まれたくないからかもしれない。なぜか。啄木の買春体験が、赤裸々に書かれているからだ。(中略)のところは、私でも書きうつしたくない内容である。
【いくらかの金のある時、予は何のためらうことなく、かの、みだらな声に満ちた、狭い、きたない町に行った。予は去年の秋から今までに、およそ十三~四回も行った、そして十人ばかりの淫売婦を買った。・・(中略)「病気をしたい。」この希望は長いこと予の頭にひそんでいる。病気!人の厭うこの言葉は、予には故郷の山の名のようになつかしく聞こえるーああ、あらゆる責任を解除した自由の生活!我等がそれを得るの道はただ病気あるのみだ!・・・(中略)しかし予は疲れた!予は弱者だ!(中略)死だ!死だ!わたしの願いはこれ たった一つだ!】(「NIKKI」4月10日)
この啄木の荒れた生活をどう考えたらよいのか。自暴自棄的な面が記され、また絶望的な気持ちに襲われているようでもある。この荒れの背後には、カネの問題がある。カネの問題が、啄木の生活にぴったりと貼り付いている。
【予の節子を愛していることは昔も今も何の変わりがない。節子だけを愛したのではないが、最も愛したのはやはり節子だ。今もーことにこの頃予はしきりに節子を思うことが多い。人の妻として世に節子ほど可哀想な境遇にいるものがあろうか!現在の夫婦制度ーすべての社会制度は間違いだらけだ。予はなぜ親や妻や子のために束縛されねばならぬか?親や妻や子はなぜ予の犠牲とならねばならぬか?しかしそれは予が親や節子や京子を愛している事実とはおのずから別問題だ。】(「NIKKI」4月15日)
家族を養わなければならないという責任感、しかしそれを果たせないという現実。家族の面倒は、函館の宮崎郁雨にみてもらっている。そういうことでよいのかという煩悶は、啄木にはあったであろう。
6月16日、宮崎郁雨、啄木の家族を連れて上京。
【宮崎君から送ってきた十五円で本郷弓町二丁目十八番地の新井という床屋の二階二間を借り、下宿の方は、金田一君の保証で百十九円余を十円ずつの月賦にしてもらい、十五日に発ってくるように家族に言い送った。・・十六日の朝、まだ日の昇らぬうちに予と金田一君と岩本と三人は上野ステーションのプラットホームにあった。】(「NIKKI」6月)
東京での生活も宮崎郁雨に依存。案外気軽に郁雨に依存しているようにみえるが、しかしプライドの高い啄木にとっては、決してそれは受け容れられることではない。
節子、母、娘との生活。そこには嫁姑の確執もある。今まで見えていなかった事態が見えてしまう。
10月2日節子、京子を連れ実家に。10月26日節子帰る。
12月20日父、野辺地から上京、家族五人となる。
啄木一家が揃う。しかしその家族を養うだけの経済力は、啄木にはない。
(つづく)