(4)死に向かう日々(1911・2~1912・4・15)
2月1日 体の不調を覚える。腹が膨れていた。慢性腹膜炎と診断され入院(東大医科大学付属病院)。2月クロポトキン自伝を読む。3月15日退院、自宅療養(以後、亡くなるまで発熱が続く)。
【入院してゐたのが四十日許りで、三月の中旬にはもう退院したのでしたが、それはしかし病気のよくなつた為ではなく、金のつゞかなくなつた為でした。】(高田治作宛書簡、8月15日)
4月「樹木と果実」出版断念。5月「A LETTER FROM PRISON `V NAROD `SEARIES」を執筆。6月節子と帰省の件でトラブル、堀合家と断絶(堀合家は盛岡から函館へ移転)。7月節子肺尖カタル(結核)と診断される。8月妹光子上京。9月父家出。宮崎郁雨と義絶。宮崎から節子への手紙を啄木が読み怒ったのである。宮崎と節子との関係については、不明である。
1912(明治45)年(26歳)・・・1月市電のストライキに関心を持つ。
【新聞によると三十一日に始めた市内電車の車掌、運転士のストライキが昨日まで続いて、元日の市中はまるで電車の影を見なかつたといふ事である。明治四十五年がストライキの中に来たといふ事は私の興味を惹かないわけに行かなかつた。何だかそれが、保守主義者の好かない事のどんどん日本に起つて来る前兆のやうで、私の頭は久し振りに一志きり急がしかった。】(「千九百十二年日記」1月2日)
1月母、重篤な結核であることが判明。3月7日母死去。4月父上京。
4月13日啄木、節子、父、若山牧水にみとられながら永眠。6月14日節子、房江を出産。9月4日節子は子ども二人を連れて函館の実家へ。1913年5月5日節子永眠(肺結核)。
※2月20日で、日記は終わる。
貧困と病(結核)のなかで、母、啄木、節子が斃れる。
2月1日 体の不調を覚える。腹が膨れていた。慢性腹膜炎と診断され入院(東大医科大学付属病院)。2月クロポトキン自伝を読む。3月15日退院、自宅療養(以後、亡くなるまで発熱が続く)。
【入院してゐたのが四十日許りで、三月の中旬にはもう退院したのでしたが、それはしかし病気のよくなつた為ではなく、金のつゞかなくなつた為でした。】(高田治作宛書簡、8月15日)
4月「樹木と果実」出版断念。5月「A LETTER FROM PRISON `V NAROD `SEARIES」を執筆。6月節子と帰省の件でトラブル、堀合家と断絶(堀合家は盛岡から函館へ移転)。7月節子肺尖カタル(結核)と診断される。8月妹光子上京。9月父家出。宮崎郁雨と義絶。宮崎から節子への手紙を啄木が読み怒ったのである。宮崎と節子との関係については、不明である。
1912(明治45)年(26歳)・・・1月市電のストライキに関心を持つ。
【新聞によると三十一日に始めた市内電車の車掌、運転士のストライキが昨日まで続いて、元日の市中はまるで電車の影を見なかつたといふ事である。明治四十五年がストライキの中に来たといふ事は私の興味を惹かないわけに行かなかつた。何だかそれが、保守主義者の好かない事のどんどん日本に起つて来る前兆のやうで、私の頭は久し振りに一志きり急がしかった。】(「千九百十二年日記」1月2日)
1月母、重篤な結核であることが判明。3月7日母死去。4月父上京。
4月13日啄木、節子、父、若山牧水にみとられながら永眠。6月14日節子、房江を出産。9月4日節子は子ども二人を連れて函館の実家へ。1913年5月5日節子永眠(肺結核)。
※2月20日で、日記は終わる。
貧困と病(結核)のなかで、母、啄木、節子が斃れる。