最近色々な本を読み、講演もしているI氏。日本歴史に関することを書いたり、対談したりしている。しかし私にしてみれば、凡ての時代、あらゆる人物について言及することは不可能だと思う。しかしI氏はしている。そうしたものは読んではいないが、私はおそらく表面的な記述しかしていないだろうと思う。
同じような人にN氏がいる。彼の『大正デモクラシー』は、通り一遍の記述で、読んでいて学ぶものがなかった。今は亡き金原左門さんもそういう批評をしていた。
何らかのことを話すということは、何らかのことを書くということは、その内容について、少しでも深く抉ったなにものかを示すものでなければならない。そのためには、かなりの時間を投入しなければならない。
同じようなO氏がいる。彼は中世史なのに、近現代に関する本も書いている。読んでみると、行間が開きすぎていて、よくこんな本を出したものだと驚いたことがある。まだ高校の教科書の方がしっかりしている。
最近友人にたのまれて、某氏の講演を手伝った。憲法学者ではないのに、憲法について語っていた。その内容は系統性のないものだった。思いついた内容を並べているだけだった。その中には、一箇所だけ私の知らない視点があったので、すべてを否定はしないが、この人のパーソナリティなのか、質問に対しては断定的にこうだと、あらゆる問題について回答していた。
この人の講演には、熱狂的な「信者」みたいな女性たちがいた。この人が語ることを丸呑みしているような気がした。私が勉強していた部分については、これなら私も回答できるなと思うものもあったが、彼の回答は荒唐無稽のものであった。
今日、松本某に関する『朝日新聞』記事に、江川紹子さんのコメントを見つけた。
「日本中で札束が飛び交い、『金があれば何でもできる』という風潮の時代」と振り返る。「オウムは、逆方向の精神世界に憧れた若者の心を引きつけた。何を聞いても断言して答える松本死刑囚は、信徒たちからみて魅力的だった」
「何を聞いても断言」する人を、人々は求めているのかもしれない。
私は、講演を依頼される時、私が断定するのではなく、事実を示して「考えてください」という観点からレジメなどを作成する。
事実は事実、しかしその事実からどういうものを引き出すかは、ひとりひとりの自由意志でなければならない。