今日は、観劇。栗原小巻さんの、ピアノの伴奏をバックにしての一人芝居である。約90分、休憩なしで演じ、歌い、語る。
小巻さんが何才かは知らないが、貫禄がありましたね。それにあんなに声がハスキーだったかな、と思った。
さて、ストーリーは、小巻さんが松井須磨子になって、語り、歌う。
松井須磨子について、私は研究したこともないので、大雑把なことしか書けないが、1886年生まれの松井は、やはり日露戦争後、「文壇では硯友社一派の封建的遺習に対して自然主義、現実ばくろがさけばれ、個性の尊重、個人の解放が合言葉となり、政治的には軍部と藩閥批判、普選の要求、そして社会主義運動が頭をもたげ」(山川菊栄『二十世紀を歩む』)るなど、新しい動きの中に、松井はいた。
イプセンの「人形の家」を好演し、新しい女性の生き方、一人の個人(人間)として生きることを、劇を通して示した松井須磨子。そのなかで、島村抱月とめぐり会う。松井須磨子と島村は、新劇運動を担う。ところが、島村は1918年、スペイン風邪により死去、翌年須磨子は、島村抱月を追って自死を選ぶ。
抱月を追って自死を選んだ須磨子のことを考えると、果たして彼女は自立できていたのか、と思う。
この時代の女性は、今よりも因習に縛られていたはずだ。家制度、男尊女卑などの因習を打ち破って新しい女性の生き方を、ノラを通して示したにも拘わらず、愛する男のあとを追って自死を選ぶ、というのは、どうなのだろうか。
関東大震災のなかで虐殺された大杉栄、伊藤野枝。もし大杉だけが虐殺され、野枝が生き残った場合のことを想像すると、野枝は大杉のあとを追って自死を選ぶことはなかっただろう。
**********
新劇は、古典文学とともに、人生に問いかける。新劇を見ない人々は、損をしていると思う。
さて、来年の上演候補作がパンフレットに載っていた。私は、前進座と加藤健一事務所の演劇は、好きではない。しかし、静岡県では、必ず入る。この二つの劇団、上演作品に思想性が感じられないからだ。
小巻さんが何才かは知らないが、貫禄がありましたね。それにあんなに声がハスキーだったかな、と思った。
さて、ストーリーは、小巻さんが松井須磨子になって、語り、歌う。
松井須磨子について、私は研究したこともないので、大雑把なことしか書けないが、1886年生まれの松井は、やはり日露戦争後、「文壇では硯友社一派の封建的遺習に対して自然主義、現実ばくろがさけばれ、個性の尊重、個人の解放が合言葉となり、政治的には軍部と藩閥批判、普選の要求、そして社会主義運動が頭をもたげ」(山川菊栄『二十世紀を歩む』)るなど、新しい動きの中に、松井はいた。
イプセンの「人形の家」を好演し、新しい女性の生き方、一人の個人(人間)として生きることを、劇を通して示した松井須磨子。そのなかで、島村抱月とめぐり会う。松井須磨子と島村は、新劇運動を担う。ところが、島村は1918年、スペイン風邪により死去、翌年須磨子は、島村抱月を追って自死を選ぶ。
抱月を追って自死を選んだ須磨子のことを考えると、果たして彼女は自立できていたのか、と思う。
この時代の女性は、今よりも因習に縛られていたはずだ。家制度、男尊女卑などの因習を打ち破って新しい女性の生き方を、ノラを通して示したにも拘わらず、愛する男のあとを追って自死を選ぶ、というのは、どうなのだろうか。
関東大震災のなかで虐殺された大杉栄、伊藤野枝。もし大杉だけが虐殺され、野枝が生き残った場合のことを想像すると、野枝は大杉のあとを追って自死を選ぶことはなかっただろう。
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新劇は、古典文学とともに、人生に問いかける。新劇を見ない人々は、損をしていると思う。
さて、来年の上演候補作がパンフレットに載っていた。私は、前進座と加藤健一事務所の演劇は、好きではない。しかし、静岡県では、必ず入る。この二つの劇団、上演作品に思想性が感じられないからだ。