平田篤胤と彼の神道を、私は信仰の対象としてではなく、近世末から近代初めにかけての国学的な思想の流れの一つとして、つまり学問の対象として読んだり、考えたりしています。
信仰の対象とするということは、超歴史的に篤胤を捉えるということです。
私はそういう宗教的な考えはありません。私は、篤胤が生き、人々が彼の著作なりを読んで門人となり、またその没後でも神官などが「没後門人」として活躍していたことを、その時代の特徴として歴史的に捉えようとしています。平田派の学問などが、当該期の歴史にどのような影響を与えたのかを考えるために、篤胤の著作などを読みます。
横浜の方から、篤胤についてのコメントをいただきました。
吉田麻子『平田篤胤 交響する死者・生者・神々』 (平凡社新書)も読みましたが、これは平田の思想を肯定的に捉えようとした、篤胤を学問的対象として描いた著作です。今、手元にありません(書庫)が、篤胤の思想を考える上で参考になりました。吉田麻子という方は、吉田神道とは無関係の方だと思いました。
なお信仰の対象として捉えるということは、主観の中に篤胤を放り込むということでもありますが、私は無宗教なので、そういう方法はとりません。
信仰の対象とするということは、超歴史的に篤胤を捉えるということです。
私はそういう宗教的な考えはありません。私は、篤胤が生き、人々が彼の著作なりを読んで門人となり、またその没後でも神官などが「没後門人」として活躍していたことを、その時代の特徴として歴史的に捉えようとしています。平田派の学問などが、当該期の歴史にどのような影響を与えたのかを考えるために、篤胤の著作などを読みます。
横浜の方から、篤胤についてのコメントをいただきました。
吉田麻子『平田篤胤 交響する死者・生者・神々』 (平凡社新書)も読みましたが、これは平田の思想を肯定的に捉えようとした、篤胤を学問的対象として描いた著作です。今、手元にありません(書庫)が、篤胤の思想を考える上で参考になりました。吉田麻子という方は、吉田神道とは無関係の方だと思いました。
なお信仰の対象として捉えるということは、主観の中に篤胤を放り込むということでもありますが、私は無宗教なので、そういう方法はとりません。