「明治150年」について話せといわれ、思いついたのがこの三つのことばである。明治維新を契機として、日本は近代国民国家の建設を始めた。
すでに近代国民国家を建設する過程で、権力がnationalなものを導入することはどこの近代国民国家でも行われている。日本でも同様だ。当該国民国家を建設する際に、領域を設定し、その領域に居住していた人々に、同じ国の人間であるという意識を創り出さなければならないのだが、その際にはフィクションが効果的に利用される。近代国民国家としての近代天皇制国家も、様々なフィクションを動員した。その動員の様を、「明治150年」という安倍政権の強引な“祝祭”に対抗するものとして、呈示することが一つである。
もう一つは、貧困の問題である。ふつうの日本人がある程度の豊かさを享受できるようになったのは、戦後の高度経済成長のなかであった。それまでは、ほとんどの庶民は貧困のなかにあった。その様子は、『日本の下層社会』や『女工哀史』、長塚節の『土』などに記されている。
私は貧困の問題を、石川啄木を例にして考えてみたい。要するに、一度貧困の蟻地獄に入りこんでしまったら、そこから這い上がることは難しい、その典型的な例として啄木を示したい。それは「働けど、働けど・・・」に端的に表現されている。
そしてその貧困は、また現在の問題でもある。貧困の状態に生まれたり、あるいは貧困な状態に入りこんでしまうと、そこから這い上がることは難しい。
「明治150年」は、貧困の問題が通奏低音のように存在し続け、それが拡大したり縮小したりしてきたことを示したい。
もう一つは戦争である。日本近代は、戊辰戦争という内戦の中から誕生し、さらに対外戦争をその生業としてきた。近代日本国家が対外戦争をくり返し行っていたことは、年表をみてみれば即了解できるはずだ。而して、その戦争とはいかなるものであったのか、その実態を一兵士が故郷に送った手紙をもとに考えていく。
これが8月4日の講演の中身である。すでに、スライドはつくってしまった。
虚構と貧困と戦争、これは21世紀の日本の民衆が、もう一度抱えなければならないものである。一般の方々が、この話にどれほどの関心を持っていただけるか。